この作品は、「守山未亡人千賀子さん」宛の、3通の手紙から成り立っています。しかし手紙の主は誰なのか分からず、作中の所々では、「ー猫でさえも。」「ーまるで白痴のように。」と、あたかも千賀子の言葉を想定しているかのように、彼女の台詞が書かれています。
そしてその主は、どうやら未亡人たる千賀子を労る目的で手紙を書いているのではなく、彼女のいちいちの行動を批判する為に書いているようです。例えば彼女が思わぬところから50万という大金を持ち、候補者の奥さん達から立候補をすすめられ選挙に出馬しようとしたこと。好きでもない高木くんという年の離れた青年に色目を使い、誑かし、その反応を楽しんでいたこと。またその言動は常に千賀子の様子を何処かから見ているかのように、家の中の様子までありありと書かれているのです。
そんな手紙の主も唯一、彼女が夫の墓参りに行った時の様子だけは評価しています。主曰く、彼女にはその時、考える事など全くなく、まるで「すっきりとした白痴」のようであったいうのです。一体手紙の主は何を批判し、何を評価したのでしょうか。
この作品では、〈夫の死の悲しみを忘れようとするが故に、かえって過去の自分からそれを責められなければならなかった、ある未亡人〉が描かれています。
ここでは手紙の主がまるで千賀子にぴったりとくっついているかのように、彼女の行動を知っていたこと、何故か手紙の中に千賀子の台詞らしきものが書かれていることから、手紙の主が、心の中のもう1人の千賀子だったと推察し、そう仮定した上で話しをすすめていきたいと思います。また論証しやすいように、手紙の主たる千賀子を手紙の千賀子と呼び、彼女自信の意思決定をして行動している千賀子を未亡人の千賀子と呼ぶことにしましょう。
あらすじの通り、手紙の千賀子は未亡人の千賀子の、選挙に立候補した事や、若い青年の心を弄んだ事を非難しています。また手紙の彼女は自分自身を非難する時、猫が昼寝をしている時の様子やヒキガエルの生殖活動と比較され、それらよりも愚劣であると指摘されているのです。彼女曰く、そのどれもが彼らよりも純粋なものではないといいます。選挙の事も頭に朧気に浮かんだだけの事であり、勿論高木くんを弄んだ事だって単なる暇つぶしでしかあり得ません。
では守山千賀子は一体、本心として何をしたかったのでしょうか。それこそが墓参り、つまり夫の死と向き合う事だったのです。恐らく彼女は何かをしていないと夫の事を考えてしまうために、選挙活動をしようと思い立ったり高木くんを弄んだりしたのでしょう。だからこそ彼女は夫のお墓の前では考えることをなくし、「すっきりとした白痴」となっていったのです。
やがて夫の死を受け入れた千賀子は、再び活動活動と頭をいっぱいにして、自分の悲しみを紛らわそうとしていったのでした。
2014年12月14日日曜日
2014年12月11日木曜日
レポート;氷点(上)
◯85.5啓造は、人の心がいつも論理に従って動くもののように考えているらしかった。
夏江はルリ子を失った事への耐え難い苦痛から、子供を欲しがった。しかし啓造は、彼女が村井とは最早共に過ごせず寂しく、またルリ子も殺されてしまったが故に、ルリ子の後釜を探し自分の感情を満たそうという、合理的な判断を下していると思った。
これは事件の直後、夏江がルリ子を放置し、村井と不貞をはたらいた事に対し、啓造が根に持っていることからきている。そこから彼の中のストーリーは次続きになっており、また夏江のという妻の像も、そこを起点としているからこそ、女としての彼女を疑っているのである。
◯101・1人間の身勝手さは、自己本能のようなものかも知れなかった。
事の発端は夏江がルリ子の存在を無視し、村井と淫らにも不倫しようとしたことから起きている。その為にくなって彼女は自分を責め、心を病んでしまっていた。
ところが病んでいくうちに、自分の殻に閉じこもり周りが見えないった。すると自分の中で、それまでの過程はなかったことになり、耐え難い辛さだけが残っていったのである。そこから夏江は自分だけが辛い思いをしているような錯覚に陥っていった。そうして彼女は自らの罪悪を忘れていき、所謂、悲劇のヒロインになることによって、自らを責めるどころか慰めていき、健康を取り戻したのである。
そしてそれまで自分を責めていた過程を忘れてしまった代わりに、自分以外の何かに原因を求めるようになり、結果として自分に言い寄ってきた村井を悪者にすることで、自らの潔白を自らに証明しようとしたのだ。
◯154ー2夏江のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。
夏江は貰ったばかりの子供に対し、貰い子と世間に知られてしまっては可哀想だ」という理由から、旭川に戻らず札幌に残るという気遣いを見せた。啓造はこうした夏江の、貰ったばかりの子に対し、すぐに情を寄せている態度を避難しているのだ。しかも旭川には彼女の実の息子の徹もいる。それなのにその子供の方へ気を遣う事が啓造には尚更許せない。そこが夏江の行動を非社会的と指摘した所以である。
そしてこれは一見、母親としての母性が働いているように見えるがそうではないのだ。彼女は誰かの子供を貰うことで、「自分の子供を貰った」という所有欲で自分を満たそうとしているのである。よって夏江がその愛情を向けている対象は子供自身ではなく、自分自身だというところも指摘し非難しているのだ。
◯190・1啓造はルリ子の死以来、夏江を憎みはした。
啓造は自分を裏切り、ルリ子が死ぬ原因をつくった夏江を憎んだ。そして今度は彼が夏江を追い込み、傷つけ復讐しようとして、犯人の娘である陽子を養子として貰ってきた。
しかしそれは同時に、夏江に対する愛情の裏返しでもあったのである。本当は自分を裏切らず、村井の相手をせず、ルリ子と共に自分の帰りを待って欲しかったという夫としての願いの裏返しからきているのだ。だからこそ啓造は、夏江を憎みはしたものの、逆に憎まれる覚悟はなかったのである。彼にとって夏江は、常にいかなる時でも彼を愛し慕う存在でなかればならなかった。
◯250・7夏江は鏡の中の自分に誓うように、声に出して大胆につぶやいた。
誰の子かは自分には告げず犯人の子供を貰い育て、自分に情が湧いた時点で全てを明かし復讐しようという恐ろしい夫の計画知った時、夏江はひどく動揺した。そして気を落ち着かせるために化粧をはじめていく。もともと無条件で美しいものが好きな彼女は、自らが美しくなることによって気持ちを保ち、自信を持っていったのである。
やがて美しくなり気を落ち着かせた夏江は、今度は実の夫に復讐の炎を燃やしていった。そしてそれまでの弱っていた彼女を写すのではなく、鏡に写る美しい夏江を見ることで復讐する決意を固めようとして、「そして、いつか身も心も辻口をうらぎってみせるのだわ」と大胆にも口にしたのである。
◯254・10「あのね。おとなは眠らなくても夢をみることがあるのよ。」
犯人の子を妻には知らせず、その愛情が十分注がれた時点で真実を話し貶めてやろうという啓造の恐ろしい計画を夏江は知った。そしてそれを知った彼女は、夫の計画の道具であり、自分が愛情を傾ける陽子を見た時、夫への憎しみが溢れ出し自らの手にかけようとしたのである。
ところが陽子がいざ苦しい表情を見せると、今度は愛情が顔を出して、後悔が彼女を襲いはじめた。そして最早その時には、自分が何故陽子の首を絞めてしまったのか分からなくなっていたのである。また、首を絞める前と絞めた後の、陽子という対象を見た時の感情の表れ方のベクトルがあまりにもかけ離れていた為に、まるで夢でも見ていたかのように思い、そのような表現を用いたのである。
◯339・3夏江は久しぶりに、きげんのよい笑顔をみせた。
自分への復讐を企てている夫と我が子を殺した犯人の娘である陽子がいる我が家は、最早夏江が心落ち着かせることができるところではなくなっていた。またそうした夫に復習し返してやろうと、嘗ては自身も心惹かれ、共犯者として仕立てあげようとした村井も、以前のような外見的な魅力はなくなってしまい、彼女もまたそんな彼を頼ろうという気持ちは起きなくなってきている。夏江の手近には、彼女の安らげる場所はなかった。
そんな時に啓造の京都への出張話が舞い込んできたのである。京都には彼女の実の父もいるのだ。四面楚歌のような状況の中で、夏江は久しぶりに自分の心を落ち着けられるような場所に帰省できるかも知れない喜びの為に笑顔を見せたのである。
◯341・3そう夏江は、村井にいいたかった。
夏江は自分に復讐せんとする夫に対し、復讐し返す為には、夫が不倫相手だと思い込んでいる村井に対し、好意を寄せることが効果覿面と考えた。しかしその村井はというと、嘗て淡麗だった容姿は失われ、輪郭がぼやけ太っていった。彼は数年の療養生活によって心身共に疲れていってしまったのである。
しかし夏江には外見がみにくい人間をどうしても愛せなかった。これは夏江にしか通らない論理であり、それは悪ですらある。それと同時に美しいものは無条件で好きであった。よって、夏江にとって村井は、いつまで経っても美しくなければならず、病気とは言え醜くなった者に同情する気にはなれなかったのである。
またそれによって、自分が考えていた計画が破綻してしまった事も夏江には我慢ならなかった。結果、自分が愛する対象としても、計画の共犯者としても彼女は村井を受け入れられなくなっていったのだ。
◯362ー3徹は少年らしい、妥協を許さぬ態度で憤慨した。
中学生だった徹にとって、父が突然の不慮の事故でこの世を去るかもしれない事が、世の中であってはならない不条理に思われたのであろう。彼は常日頃から、自身の両親に関しては口では言わずとも自慢しているところがあり、理想の存在なのである。その理想の父が、父としての責任を全うせずに、突然死ぬ事などあってはならないように思っているのだ。
夏江はルリ子を失った事への耐え難い苦痛から、子供を欲しがった。しかし啓造は、彼女が村井とは最早共に過ごせず寂しく、またルリ子も殺されてしまったが故に、ルリ子の後釜を探し自分の感情を満たそうという、合理的な判断を下していると思った。
これは事件の直後、夏江がルリ子を放置し、村井と不貞をはたらいた事に対し、啓造が根に持っていることからきている。そこから彼の中のストーリーは次続きになっており、また夏江のという妻の像も、そこを起点としているからこそ、女としての彼女を疑っているのである。
◯101・1人間の身勝手さは、自己本能のようなものかも知れなかった。
事の発端は夏江がルリ子の存在を無視し、村井と淫らにも不倫しようとしたことから起きている。その為にくなって彼女は自分を責め、心を病んでしまっていた。
ところが病んでいくうちに、自分の殻に閉じこもり周りが見えないった。すると自分の中で、それまでの過程はなかったことになり、耐え難い辛さだけが残っていったのである。そこから夏江は自分だけが辛い思いをしているような錯覚に陥っていった。そうして彼女は自らの罪悪を忘れていき、所謂、悲劇のヒロインになることによって、自らを責めるどころか慰めていき、健康を取り戻したのである。
そしてそれまで自分を責めていた過程を忘れてしまった代わりに、自分以外の何かに原因を求めるようになり、結果として自分に言い寄ってきた村井を悪者にすることで、自らの潔白を自らに証明しようとしたのだ。
◯154ー2夏江のこの母性愛にも似たやさしさに、啓造はひどく非社会的なものを感じた。
夏江は貰ったばかりの子供に対し、貰い子と世間に知られてしまっては可哀想だ」という理由から、旭川に戻らず札幌に残るという気遣いを見せた。啓造はこうした夏江の、貰ったばかりの子に対し、すぐに情を寄せている態度を避難しているのだ。しかも旭川には彼女の実の息子の徹もいる。それなのにその子供の方へ気を遣う事が啓造には尚更許せない。そこが夏江の行動を非社会的と指摘した所以である。
そしてこれは一見、母親としての母性が働いているように見えるがそうではないのだ。彼女は誰かの子供を貰うことで、「自分の子供を貰った」という所有欲で自分を満たそうとしているのである。よって夏江がその愛情を向けている対象は子供自身ではなく、自分自身だというところも指摘し非難しているのだ。
◯190・1啓造はルリ子の死以来、夏江を憎みはした。
啓造は自分を裏切り、ルリ子が死ぬ原因をつくった夏江を憎んだ。そして今度は彼が夏江を追い込み、傷つけ復讐しようとして、犯人の娘である陽子を養子として貰ってきた。
しかしそれは同時に、夏江に対する愛情の裏返しでもあったのである。本当は自分を裏切らず、村井の相手をせず、ルリ子と共に自分の帰りを待って欲しかったという夫としての願いの裏返しからきているのだ。だからこそ啓造は、夏江を憎みはしたものの、逆に憎まれる覚悟はなかったのである。彼にとって夏江は、常にいかなる時でも彼を愛し慕う存在でなかればならなかった。
◯250・7夏江は鏡の中の自分に誓うように、声に出して大胆につぶやいた。
誰の子かは自分には告げず犯人の子供を貰い育て、自分に情が湧いた時点で全てを明かし復讐しようという恐ろしい夫の計画知った時、夏江はひどく動揺した。そして気を落ち着かせるために化粧をはじめていく。もともと無条件で美しいものが好きな彼女は、自らが美しくなることによって気持ちを保ち、自信を持っていったのである。
やがて美しくなり気を落ち着かせた夏江は、今度は実の夫に復讐の炎を燃やしていった。そしてそれまでの弱っていた彼女を写すのではなく、鏡に写る美しい夏江を見ることで復讐する決意を固めようとして、「そして、いつか身も心も辻口をうらぎってみせるのだわ」と大胆にも口にしたのである。
◯254・10「あのね。おとなは眠らなくても夢をみることがあるのよ。」
犯人の子を妻には知らせず、その愛情が十分注がれた時点で真実を話し貶めてやろうという啓造の恐ろしい計画を夏江は知った。そしてそれを知った彼女は、夫の計画の道具であり、自分が愛情を傾ける陽子を見た時、夫への憎しみが溢れ出し自らの手にかけようとしたのである。
ところが陽子がいざ苦しい表情を見せると、今度は愛情が顔を出して、後悔が彼女を襲いはじめた。そして最早その時には、自分が何故陽子の首を絞めてしまったのか分からなくなっていたのである。また、首を絞める前と絞めた後の、陽子という対象を見た時の感情の表れ方のベクトルがあまりにもかけ離れていた為に、まるで夢でも見ていたかのように思い、そのような表現を用いたのである。
◯339・3夏江は久しぶりに、きげんのよい笑顔をみせた。
自分への復讐を企てている夫と我が子を殺した犯人の娘である陽子がいる我が家は、最早夏江が心落ち着かせることができるところではなくなっていた。またそうした夫に復習し返してやろうと、嘗ては自身も心惹かれ、共犯者として仕立てあげようとした村井も、以前のような外見的な魅力はなくなってしまい、彼女もまたそんな彼を頼ろうという気持ちは起きなくなってきている。夏江の手近には、彼女の安らげる場所はなかった。
そんな時に啓造の京都への出張話が舞い込んできたのである。京都には彼女の実の父もいるのだ。四面楚歌のような状況の中で、夏江は久しぶりに自分の心を落ち着けられるような場所に帰省できるかも知れない喜びの為に笑顔を見せたのである。
◯341・3そう夏江は、村井にいいたかった。
夏江は自分に復讐せんとする夫に対し、復讐し返す為には、夫が不倫相手だと思い込んでいる村井に対し、好意を寄せることが効果覿面と考えた。しかしその村井はというと、嘗て淡麗だった容姿は失われ、輪郭がぼやけ太っていった。彼は数年の療養生活によって心身共に疲れていってしまったのである。
しかし夏江には外見がみにくい人間をどうしても愛せなかった。これは夏江にしか通らない論理であり、それは悪ですらある。それと同時に美しいものは無条件で好きであった。よって、夏江にとって村井は、いつまで経っても美しくなければならず、病気とは言え醜くなった者に同情する気にはなれなかったのである。
またそれによって、自分が考えていた計画が破綻してしまった事も夏江には我慢ならなかった。結果、自分が愛する対象としても、計画の共犯者としても彼女は村井を受け入れられなくなっていったのだ。
◯362ー3徹は少年らしい、妥協を許さぬ態度で憤慨した。
中学生だった徹にとって、父が突然の不慮の事故でこの世を去るかもしれない事が、世の中であってはならない不条理に思われたのであろう。彼は常日頃から、自身の両親に関しては口では言わずとも自慢しているところがあり、理想の存在なのである。その理想の父が、父としての責任を全うせずに、突然死ぬ事などあってはならないように思っているのだ。
2014年12月4日木曜日
未亡人ー豊島与志雄(修正版)
政界を裏で牛耳っていた守山氏の夫人である千賀子は、ひょんな事から自分のもとに50万円が舞い込んできたこと、お茶の集まりの際に政界の夫人から立候補を後押しされた事をきっかけに、選挙への出馬を決意していきます。
ですが、そうした彼女の行動は、他人からはどうにも不順にうつってしまうようです。代議士に立候補した事も、ぼんやりとそれが自分がすべきものだと考えていただけに過ぎませんし、未亡人の身でありながら一回り以上年下の高木を誑かそうとした事も、決して本気ではありません。それもこれも、どうやら彼女が未亡人故だかららしいのです。
しかし、そんな千賀子が家の者に選挙への立候補を宣言し、自身がまずすべきこととして、夫の墓参りに行った時のことでした。手を合わせている彼女は、「すっきりした白痴」のように何も考えてはいませんでした。代議士に当選すること、3年前に亡くなった夫への助力もなく、霊界への祈念もありません。無心だったのです。
そして白痴となり、気持ちを新たにしたはずの千賀子ですが、活動活動に追われる日々に飛び込んでいった中で、その目をありふれた未亡人のように、濁らせていくのでした。
この作品では、〈夫の死を受け入れようとするが故に、夫の影を背負っていかなければならなくなっていった、ある未亡人〉が描かれています。
結論から申しますと、未亡人が未亡人たる所以というのは、常に夫の影がそこにつきまとっているからに他ならないのです。出馬を立候補した時も、高木を弄んでいた時も、その背後には常に故人守山氏が顔を出していました。そして千賀子はその度に、ある一面からは厚生参与官の妻、またある一面からは1人の男の女として見られていたのです。またそれらの面は、世間から未亡人としての同情をひいたり、いやらしく艶かしいものを感じさせたりするには十分過ぎる要因でもあります。そして彼女はこれらを自覚していたからこそ、そのいちいちの行動にはついつい不純さを感じてしまうのです。
ところが、亡き夫の墓参りに行った時、彼女には考えというものは何もありませんでした。つまり千賀子は夫と対面したことによって、1人の男の女に戻り、守山氏と共にいた頃の彼女に戻っていったのです。
しかしお参りが済むと、再び夫がいない現実の世界に戻り、未亡人としての千賀子に戻っていきます。そしてありふれた未亡人は活動活動に浸っていく中で、夫の影を周囲にちらつかせていきながら、それを武器に世の中を歩き渡り、瞳を濁らせていくのです。
ですが、そうした彼女の行動は、他人からはどうにも不順にうつってしまうようです。代議士に立候補した事も、ぼんやりとそれが自分がすべきものだと考えていただけに過ぎませんし、未亡人の身でありながら一回り以上年下の高木を誑かそうとした事も、決して本気ではありません。それもこれも、どうやら彼女が未亡人故だかららしいのです。
しかし、そんな千賀子が家の者に選挙への立候補を宣言し、自身がまずすべきこととして、夫の墓参りに行った時のことでした。手を合わせている彼女は、「すっきりした白痴」のように何も考えてはいませんでした。代議士に当選すること、3年前に亡くなった夫への助力もなく、霊界への祈念もありません。無心だったのです。
そして白痴となり、気持ちを新たにしたはずの千賀子ですが、活動活動に追われる日々に飛び込んでいった中で、その目をありふれた未亡人のように、濁らせていくのでした。
この作品では、〈夫の死を受け入れようとするが故に、夫の影を背負っていかなければならなくなっていった、ある未亡人〉が描かれています。
結論から申しますと、未亡人が未亡人たる所以というのは、常に夫の影がそこにつきまとっているからに他ならないのです。出馬を立候補した時も、高木を弄んでいた時も、その背後には常に故人守山氏が顔を出していました。そして千賀子はその度に、ある一面からは厚生参与官の妻、またある一面からは1人の男の女として見られていたのです。またそれらの面は、世間から未亡人としての同情をひいたり、いやらしく艶かしいものを感じさせたりするには十分過ぎる要因でもあります。そして彼女はこれらを自覚していたからこそ、そのいちいちの行動にはついつい不純さを感じてしまうのです。
ところが、亡き夫の墓参りに行った時、彼女には考えというものは何もありませんでした。つまり千賀子は夫と対面したことによって、1人の男の女に戻り、守山氏と共にいた頃の彼女に戻っていったのです。
しかしお参りが済むと、再び夫がいない現実の世界に戻り、未亡人としての千賀子に戻っていきます。そしてありふれた未亡人は活動活動に浸っていく中で、夫の影を周囲にちらつかせていきながら、それを武器に世の中を歩き渡り、瞳を濁らせていくのです。
2014年12月1日月曜日
山男の四月ー宮沢賢治(修正版)
ある時、山鳥を捕まえた山男は、嬉しさのあまりそれをぶらぶら振り回しながら森から出ていきました。やがて日当たりの良い枯れ芝に辿り着いた彼は、仰向けになって、あまりの気持ちよさにいつしか夢の中へと旅立っていった様子。
夢の中でどうやら彼は、木こりに化けて町へと来ていました。するとそこには、赤い、とかげのような目つきをした支那人の薬売りの陳がいて、「あなた、この薬のむよろしい。」と、六神丸なる薬を山男にすすめてきます。彼もこれには警戒していましたが、ついつい断れず飲み込んでしまいした。すると、なんと彼の身体はみるみる小さくなり、陳の薬箱の中へ閉じ込められてしまったではありませんか。
そこには山男と同じく、陳によって六神丸を飲まされた者達がいて、皆六神丸となって泣いていました。その中の一人が彼に話しかけてきて、どうやら黒い丸薬を飲めば、もとに戻るらしいのです。
そこで山男は陳の隙をねらい、その丸薬を飲んでもとの姿に戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを呑んでしまったので、山男よりも大きくなり、彼を捕まえてしまいます。
しかし夢はそこで終わってしまい、目が覚めた山男は野に投げ出された山鳥を見たり六神丸の事を考えたりして、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言ってあくびをするのでした。
この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったにも拘わらず、あえて食べる側の気持ちを優先しなければならなかった、ある山男〉が描かれています。
この作品の面白みは、自分と山鳥、陳と自分といった、食うもの食われるものの関係を客観的に考え、夢の中での自分の気持ちを整理したにも拘わらず、「ええ、畜生、夢のなかのこった。」と言ってあくびをしながら考える事をやめてしまったところにあります。では、何故彼はそれ以上、食べられる側の気持ちについて考えなかったのでしょうか。
答えは単純で、例え食べられるものの気持ちを考えたところで、結局食べなければいけない事実は変えられないからに他ならないのです。私達でも「この牛や鳥達は、こうして調理されて出てくる前は、自分たちと同じように生きていたんだな」と考え同情する事は十分あるかとは思います。しかし、それ以上食べられるものの気持ちを考えたらどうなることでしょうか。
私は小さい頃、親戚の漁師が釣ってきた生きた蟹を、母が熱い鍋の中に突っ込んでいるのを目の当たりした時は衝撃を覚えました。蟹は苦しそうに鍋の中から出ようとしますが、母の右手に握られた菜箸がそれを許してはくれません。私は子供心ながらに蟹が可哀想で、食べることにやや抵抗があった事は今でも覚えています。
以来、そうした経験が幸いにもなかったのか、その時の思いが薄れてしまったのか、そうした事はありませんでしたが、そうした出来事を何度も経験していたなら、今の私はきっと蟹を食べることはできなくなっていたでしょう。
物語の山男も矢張り同じです。陳の夢の事を狩りの度に、或いは食べる度に思い出していると、徐々に躊躇しはじめ、いずれかは自身の食に支障をきたしていく事でしょう。
ですから、一度自分の気持ちを整理した上で、食べるものの都合を優先しなければならなかったのです。
夢の中でどうやら彼は、木こりに化けて町へと来ていました。するとそこには、赤い、とかげのような目つきをした支那人の薬売りの陳がいて、「あなた、この薬のむよろしい。」と、六神丸なる薬を山男にすすめてきます。彼もこれには警戒していましたが、ついつい断れず飲み込んでしまいした。すると、なんと彼の身体はみるみる小さくなり、陳の薬箱の中へ閉じ込められてしまったではありませんか。
そこには山男と同じく、陳によって六神丸を飲まされた者達がいて、皆六神丸となって泣いていました。その中の一人が彼に話しかけてきて、どうやら黒い丸薬を飲めば、もとに戻るらしいのです。
そこで山男は陳の隙をねらい、その丸薬を飲んでもとの姿に戻ることが出来ました。ところが陳も黒い丸薬だけを呑んでしまったので、山男よりも大きくなり、彼を捕まえてしまいます。
しかし夢はそこで終わってしまい、目が覚めた山男は野に投げ出された山鳥を見たり六神丸の事を考えたりして、
「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言ってあくびをするのでした。
この作品では、〈食べられるものの気持ちを知ったにも拘わらず、あえて食べる側の気持ちを優先しなければならなかった、ある山男〉が描かれています。
この作品の面白みは、自分と山鳥、陳と自分といった、食うもの食われるものの関係を客観的に考え、夢の中での自分の気持ちを整理したにも拘わらず、「ええ、畜生、夢のなかのこった。」と言ってあくびをしながら考える事をやめてしまったところにあります。では、何故彼はそれ以上、食べられる側の気持ちについて考えなかったのでしょうか。
答えは単純で、例え食べられるものの気持ちを考えたところで、結局食べなければいけない事実は変えられないからに他ならないのです。私達でも「この牛や鳥達は、こうして調理されて出てくる前は、自分たちと同じように生きていたんだな」と考え同情する事は十分あるかとは思います。しかし、それ以上食べられるものの気持ちを考えたらどうなることでしょうか。
私は小さい頃、親戚の漁師が釣ってきた生きた蟹を、母が熱い鍋の中に突っ込んでいるのを目の当たりした時は衝撃を覚えました。蟹は苦しそうに鍋の中から出ようとしますが、母の右手に握られた菜箸がそれを許してはくれません。私は子供心ながらに蟹が可哀想で、食べることにやや抵抗があった事は今でも覚えています。
以来、そうした経験が幸いにもなかったのか、その時の思いが薄れてしまったのか、そうした事はありませんでしたが、そうした出来事を何度も経験していたなら、今の私はきっと蟹を食べることはできなくなっていたでしょう。
物語の山男も矢張り同じです。陳の夢の事を狩りの度に、或いは食べる度に思い出していると、徐々に躊躇しはじめ、いずれかは自身の食に支障をきたしていく事でしょう。
ですから、一度自分の気持ちを整理した上で、食べるものの都合を優先しなければならなかったのです。
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