2012年8月26日日曜日

サフランー森鴎外

 子供の頃、本好きだった著者は自身の父からオランダ語を習っていた時のこと、彼はオランダ語の辞書からサフランという言葉に興味を抱いたことがありました。しかし、その興味というものはそれ以上強くなることはありませんでした。
 やがて月日は経ち半老人となった彼は、ある日花屋でサフランを買って帰りました。ですが、花は2日でしおれてしまいました。ところが、その翌月になるとしおれたはずのサフランが青々とした葉を出しているではありませんか。これを見た著者は、サフランに対してある感情を抱いていくようになります。

 この作品では、〈自分の所有物に対する、ある著者の冷たさ〉が描かれています。

 サフランが再び葉を茂らせているところを目撃して以来、著者は折々水をやるようになっていきました。ですが、これはサフランに対する愛情からではありません。では何故彼はサフランに水をやろうと思ったのか。というのも、一般的に見れば、著者の行動というものは、ある見方をすればそれは野次馬と見られても仕方のない事のようにも思います。そうかと言って、やらなければやらないで独善や冷酷といった見方をする人々もいることでしょう。ですが、そういった事が頭をよぎりながらも、その動機というものは彼自身にも明確には分からなかったようです。ただ彼はサフランと自分の関係について、下記のように考えて自身の行動を納得させています。

◯しかしどれ程疎遠な物にもたまたま行摩の袖が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只それだけである。

◯宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。

 つまり彼は、確かに自分はサフランと接点はあるが、それは非常に弱いものである。そして私が水をやろうとやるまいと、私が私なりに生きていくようにサフランもサフランなりにいきていくだろう、と考えています。ですから彼は、自身の花に水をやりたいという衝動を抑えることなく、それを実行することが出来たのです。

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