この物語は二人の男の会話から成り立っています。ある男が『何か面白い事はないか?』と尋ねると、もう一人のはなんと、『俺は昨夜火星に行って来た』と言い出します。そして男が幾ら、それは嘘だといっても、やはりもう一人の男は真実だと言うのです。さて、この男にとって、真実とはどういうものなのでしょうか。
この作品は、一見するとただの頓智話に過ぎませんが、その中に登場する、もう一人の男の失敗というものが、現実を生きる私たちにとっては少し笑えない部分があります。そして、その男の失敗とは、〈自分の頭の中の出来事を真実として捉えてしまった〉というところにあります。
まず、下記にあるのは、この作品の中でのもう一人男の失敗を明確に表した一文です。
『だってそうじゃないか。そう何年も続けて夢を見ていた日にゃ、火星の芝居が初まらぬうちに、俺の方が腹を減らして目出度大団円になるじゃないか、俺だって青い壁の涯まで見たかったんだが、そのうちに目が覚めたから夢も覚めたんだ』
なんと、もう一人の男はそれまで火星に行ったと語っていたことは、全て夢の中の出来事だったのです。ですが、彼にとっては夢の中であれ、それは確かにあった出来事であり真実であると考えています。そして私たちは、この男が頭にあった出来事を真実として捉えている馬鹿らしさが滑稽に思い笑ってしまうことでしょう。しかし、そんな私たちですら、このもう一人の男と同じような失敗を無意識にしていることはないでしょうか。
例えば、私が大学受験に向けて勉強をしていた時、担任の先生から大学へ提出するための、自分の評価が書かれた内申書を受け取りました。内申書は封筒に入っており、開かないと決して見られないようになっていました。先生の話では、その内申書の内容というものは個人の情報であり、友達であろうと絶対に見せてはいけないとのことでした。そして、その日の放課後、私たちは自分たちの内申書どのような事が書かれているか、推理していました。ところがその話を偶然聞いていた私たちの担任の先生は、ある友人を激しく叱りました。なんと先生はその友人が自分の内申書を開けて、友達に見せているのだと勘違いをしてしまったのです。話は当然平行線でしたが、最終的にはその友人の反論は通らず、先生の頭の中ではその友人が内申書を見せたことになってしまったのです。この先生の失敗もまさに、自分の頭の中の出来事を真実としてとらえ、他人に押し付けてしまったことにあるのです。
頓知話とは一見単純に滑稽なものですが、そこにある失敗というものは、私たちも知らず知らずのうちにやっていることかもしれません。
2011年8月13日土曜日
2011年8月10日水曜日
さるのこしかけー宮沢賢治
楢夫は夕方、裏の大きな栗の木の下に行きました。その幹の、丁度楢夫の目位高い所に、白いきのこが三つできていました。彼はそれを「さるのこしかけ」と呼びその大きさから、そこに普段から座っている猿がどのようなものかを想像してしいました。すると、そこに三疋の小猿が現れ、「さるのこしかけ」へと座り、楢夫と話しはじめます。はじめは、この小猿たちは楢夫に対して高慢な態度をとっていましたが、何故かその態度を改め、「楢夫さん。いや、どうか怒らないで下さい。私はいい所へお連れしようと思って、あなたのお年までお尋ねしたのです。どうです。おいでになりませんか。いやになったらすぐお帰りになったらいいでしょう。」と、彼をある場所へと案内しようとします。果たして彼らは楢夫を何処へ連れていき、何をしようとしているのでしょうか。
この作品では、〈相手の力量を目に見えるもので測ってしまった、ある少年〉が描かれています。
まずこの後楢夫と小猿が向かった先は、種山ヶ原という場所でした。そこに着いた楢夫ははじめ「とんでもない処へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」と考えていましたが、猿たちの軍隊の演習がはじまるとこれが面白くて、暫く見学していました。ですが、突然この小猿の軍隊は彼に襲いかかり、小さな編みでぐるぐる巻きにされ、林よりも高い場所から落とされてしまうのです。では、彼は何故このような酷い目にあってしまったのでしょうか。
そもそも楢夫はこの小猿達について、その小さい身なりから、「いくら小猿の大将が威張ったって、僕のにぎりこぶしの位もないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」と自分より実力が下の存在だと考えていました。しかしその小さな猿達によって、彼は騙されて彼以上に大きな力によって翻弄されて閉まったのです。まさに彼は、猿の力量を見誤った為に、このような酷い目にあってしまったのです。
この作品では、〈相手の力量を目に見えるもので測ってしまった、ある少年〉が描かれています。
まずこの後楢夫と小猿が向かった先は、種山ヶ原という場所でした。そこに着いた楢夫ははじめ「とんでもない処へ来たな。すぐうちへ帰れるかい。」と考えていましたが、猿たちの軍隊の演習がはじまるとこれが面白くて、暫く見学していました。ですが、突然この小猿の軍隊は彼に襲いかかり、小さな編みでぐるぐる巻きにされ、林よりも高い場所から落とされてしまうのです。では、彼は何故このような酷い目にあってしまったのでしょうか。
そもそも楢夫はこの小猿達について、その小さい身なりから、「いくら小猿の大将が威張ったって、僕のにぎりこぶしの位もないのだ。どんな顔をしているか、一ぺん見てやりたいもんだ。」と自分より実力が下の存在だと考えていました。しかしその小さな猿達によって、彼は騙されて彼以上に大きな力によって翻弄されて閉まったのです。まさに彼は、猿の力量を見誤った為に、このような酷い目にあってしまったのです。
2011年8月6日土曜日
兵士と女優ーオン・ワタナベ
ある時、オング君は戦争から帰ってきて町を歩いていると、知り合いの娘に声をかけられます。久しぶりの再会を二人は喜び、やがて喫茶店でコーヒーを飲みながらお互いの近況を話していました。そして二人の話は『時は過ぎ行く』という映画の話題になります。娘の話によると、その映画は戦争を美化し若者を感化し、戦争に駆り立てているというのです。この話をもとに、二人の戦争批判、及び映画批判が繰り広げられるのです。
この作品の重要な点は、〈当時の世界が戦争に向かって進んでいる中、二人の会話を通して真っ向からそれを批判した〉ことにあります。
まず彼らの批判の中身というものは、映画によって戦争を美化し、若者を先導していること、また現在行われている戦争というものは、一部の金満家の利益によるものであり、これらは最も不埒な悪であるというものでした。
ですが、この物語では批判されていませんが、これはただ利用する側だけに問題があり、利用される側には問題はなかったのでしょうか。まず映画の問題を言えば、もしも各個人がそのような映画を見たとしても、一度立ち止まって正しく判断する能力があれば、そのようなことは怒らなかったのです。ですが、彼らは考えようとせず、また正しい判断が出来なかったために、戦争に出兵してしているので、まだ救いようがあると言えます。問題なのは、もう一方の一部の金満家たちに利用されている人々、つまりオング君とその娘です。何故なら、彼らは自分たちの仕事が悪いことだと知っておきながら、彼らの利益の為、それに加担しています。こうした彼らの行動こそが、事態を悪化させ、最も不埒な悪なるものを助長されているのです。物事はどちらか一方に原因があるのではなく、両者に原因と成りうる性質が存在しているのです。
この作品の重要な点は、〈当時の世界が戦争に向かって進んでいる中、二人の会話を通して真っ向からそれを批判した〉ことにあります。
まず彼らの批判の中身というものは、映画によって戦争を美化し、若者を先導していること、また現在行われている戦争というものは、一部の金満家の利益によるものであり、これらは最も不埒な悪であるというものでした。
ですが、この物語では批判されていませんが、これはただ利用する側だけに問題があり、利用される側には問題はなかったのでしょうか。まず映画の問題を言えば、もしも各個人がそのような映画を見たとしても、一度立ち止まって正しく判断する能力があれば、そのようなことは怒らなかったのです。ですが、彼らは考えようとせず、また正しい判断が出来なかったために、戦争に出兵してしているので、まだ救いようがあると言えます。問題なのは、もう一方の一部の金満家たちに利用されている人々、つまりオング君とその娘です。何故なら、彼らは自分たちの仕事が悪いことだと知っておきながら、彼らの利益の為、それに加担しています。こうした彼らの行動こそが、事態を悪化させ、最も不埒な悪なるものを助長されているのです。物事はどちらか一方に原因があるのではなく、両者に原因と成りうる性質が存在しているのです。
2011年8月3日水曜日
伸び支度ー島崎藤村
子供好きの娘、袖子は高等小学校を終わるか終わらないかのぐらいの年頃になった頃、「とても何かなしにはいられな」い衝動を感じはじめます。その時分から、彼女は別の近所の子供を抱いてきて、自分の部屋で遊ぶようになります。ですが、袖子は自身が初潮を迎え大人になっていくことを自覚しはじめた途端、彼女はそれまで可愛がっていた子供に対して、別の異なる印象を持ちはじめ、以前のように抱くことができなくなっていきます。一体彼女は初潮を迎え、何を感じているのでしょうか。
この作品では、〈子供から大人への成長を感じはじめると共に、親からの自立を感じはじめるある少女〉が描かれています。
まず、袖子の父は、彼女に対して人形を扱うように接していた節があり、彼女に対して、なんと彼女ではなく自分の好みの服、好みの人形を与えていたのです。そんな父の姿を見て、彼女は自身が愛する子供に対しても同じように接していました。
しかし、袖子が初潮を迎えると共に、この父娘は自分がそれまで愛していたものへの印象を徐々に変えていくことになります。父はそれまで何でも自分の思い通りになっていた愛おしい人形娘に対して、徐々に彼女が人形(子供)ではなくなり、自らの手から離れていくことを感じていきます。そして一方の娘の袖子も、「さものんきそうな兄さん達とちがって、彼女は自分を護らねばならなかった。」の一文からも理解できるように、自らの大人としての自立を感じています。これは、今まで今まで父の人形として生きてきた彼女にとって、人形以外の生き方を強いられるわけですから、大なり小なり不安なものであるに違いありません。ですが、あくまで大人になりつつある段階なのであり、彼女はまだ子供でもあります。この中途半端な立場から、袖子はそれまで愛してた子供を見た時、羨ましい気持ちを感じると共に、やがて彼らも自分と同じように、彼女ものとから離れ、自立していくことを悟り、これまでのように抱けなくなっていったのです。
この作品では、〈子供から大人への成長を感じはじめると共に、親からの自立を感じはじめるある少女〉が描かれています。
まず、袖子の父は、彼女に対して人形を扱うように接していた節があり、彼女に対して、なんと彼女ではなく自分の好みの服、好みの人形を与えていたのです。そんな父の姿を見て、彼女は自身が愛する子供に対しても同じように接していました。
しかし、袖子が初潮を迎えると共に、この父娘は自分がそれまで愛していたものへの印象を徐々に変えていくことになります。父はそれまで何でも自分の思い通りになっていた愛おしい人形娘に対して、徐々に彼女が人形(子供)ではなくなり、自らの手から離れていくことを感じていきます。そして一方の娘の袖子も、「さものんきそうな兄さん達とちがって、彼女は自分を護らねばならなかった。」の一文からも理解できるように、自らの大人としての自立を感じています。これは、今まで今まで父の人形として生きてきた彼女にとって、人形以外の生き方を強いられるわけですから、大なり小なり不安なものであるに違いありません。ですが、あくまで大人になりつつある段階なのであり、彼女はまだ子供でもあります。この中途半端な立場から、袖子はそれまで愛してた子供を見た時、羨ましい気持ちを感じると共に、やがて彼らも自分と同じように、彼女ものとから離れ、自立していくことを悟り、これまでのように抱けなくなっていったのです。
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