2017年2月16日木曜日

女強盗(三〜六)ー菊池寛

   ある失業した侍(貴族に仕える侍で、後世の侍ではない)が夕暮れに京の町を歩いていると、ある家から鼠鳴きをして彼を誘ってくる女に出会いました。男はその女の容姿が淡麗な事もあり、一緒に寝ることにします。そうして男はそのままその家に居ついてしまうのでした。ですが、この女にはいくつか奇妙な点があります。まず女一人でその家に住んでいる事。そして、度々客人とも友人ともつかぬ訪問者が、彼女の家にやって世話をしてくれる事。さらに、訪問者は毎回毎回違う顔ぶれでやってくるのです。そして男の方でもこうした出来事に一応の注意は払っていましたが、女との甘美で優雅な生活に酔いしれる内に、気にも止めなくなっていったのです。
   そんなある日、男は女から、「不思議な御縁でいっしょに暮しましたが、あなたもお気に召したあらこんなに長くいらっしゃるのでしょう。そうすれば、私のいうことは、生死にかからわず聴いて下さるでしょう。」と言われます。そうして、すっかり女との生活に魅せられていた男は、女からの鞭打ちの拷問を受け、傷が癒えると再び打たれるといった事を繰り返しました。
   こうして男は女から傷つけられ、優しくされる生活が続いたかと思えば、男は女から強盗の手伝いを言いつけられます。その際女は細かい注意を与えてから、行かせました。しかしそこには男の他に、二、三十人の下人と小柄な頭領らしき男がいたのです。そして男は頭領の指示に従い盗みを働きました。そうして家に帰ると、女がお風呂や食事の世話をしてくれていました。男は段々と女と別れがたくなり、盗みも次第に気にならなくなっていきます。彼はどのような役割でも充分働きまいした。
   しかし突如として別れの時がやってきてしまいます。ある時女は、「あなたと本意なく別れるようになるかもしれない」という言葉を残して、男の前から姿を消してしまったのです。ですが、盗みの技術をすっかり身につけてしまった男は、その挙句に御用となり、これらの話を白状してしまいます。そしてその男曰く、今思えばその時の頭領というのは、自分が連れ添っていたあの女であったらしいのです。

2017年2月12日日曜日

大島が出来る話ー菊池寛(修正版)

   学生の頃、父の倒産をきっかけにして、近藤家の補助を受けていた「譲吉」は、「その夫人」に並々ならぬ恩義を感じていました。というのも、金銭的な補助だけならいざ知らず、金銭を渡す時の近藤夫人の手からは常に人情味を感じており、また衣類や日用品の世話など、彼の生活の痒いところにまで心を配ってくれていたのです。そうした彼女の気持ちを譲吉は常日頃から大切にしていました。その傍ら、夫人に恩を返すことは、どうにもおかしい事のようにも感じていました。恩を返す、という事は即ち、夫人の危機を待たねばいけませんから、当然それを望まなければなりませんし、一旦恩を返してしまうと、それまで築いてきた「与えられる関係」が終わり、夫人との繋がりが絶たれると思い、恩を返す気にはなれませんでした。
    やがて、彼は就職し、結婚すると金銭的な余裕も出てきて、服を何着か揃える事ができる身分にまでなっていきます。ですが、そんな彼でも大島の服だけは手を伸ばしにくいものを感じていました。「妻」の熱心な勧めによって貯金もしていたのですが、やがてその妻が妊娠すると生活費が嵩み、夫婦共々諦めていくようになります。しかしその一方で、譲吉は同じ時期に入社した同僚が大島の服を着ている姿を見ると、つい褒めてしまい、羨ましがらずにはいられませんでした。
    そんな彼に、ある時不幸が訪れます。なんとあれ程頼りにしていた夫人が突然亡くなってしまったのです。そして譲吉の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまいました。またそうした状態で夫人の葬式に連なったものの、彼にできる事は限られていたのです。無学な坊主の説教に腹を立てがらも、それ以外に弔う術を知らないのでそれに甘んじること。その受けてきた大恩を感じているにも拘らず、夫人との親交が浅い縁者と共に参列すること。そうした自身に、彼は無力さを感じずにはいられませんでした。
   やがてその数週間後、譲吉の家には、夫人から産衣が送られてきました。彼らはそれを夫人からの最後の贈り物として考えていました。しかし、その四、五日後には、譲吉があれ程欲しがっていた大島が届いたのです。妻はこれを嬉々としましたが、彼の心はそうした晴れやかな気持ちばかりではありませんでした。

   この作品では、〈夫人との力関係を大切にしようとするが故に、自身の甘えた心を自覚せねばならなかった、ある青年〉が描かれています。

    この作品の暗い読後感を考えるに当たって、もう一度、重吉の、近藤夫人への恩に対する考え方を見ていきましょう。夫人から贈り物を通して伝わってくる気持ちに関して彼は、大きな恩を感じており、それを大切にしたいと思っていました。そしてその為には、こうした関係そのものを保存する事が一番であり、少しでもつつけばその関係が崩れてしまうのではないかとも思っていました。ですがよく考えてみると、それは常にお互いの生活、健康状態が現状を維持しているという、言わば静的な見方によって成り立っています。と言いますのも、近藤家も譲吉の父のように倒産することだって、充分あり得る話ですし、この作品の後半のように、夫人が急死する可能性だって考えられたのです。万物は常に変化しています。それは人間関係だって例外ではありません。子供を育てていた親はいつか、子供に養って貰わねばならない時期がきますし、小さい頃に虐められて子供と虐めっ子が大人になって杯を酌み交わす事だってあるのです。変化のない関係などありません。
  ですがこの作品の不幸というものは、夫人が死んだ直後に、譲吉がそれに気づきはじめるというところにあります。もうそこには、恩を感じる対象そのものがいない訳ですし、そうした気持を表現する矛先を失った彼は、ただ悶々としてそれ溜め込む以外にありませんでした。
   しかしそれだけでは終わりません。夫人は死の直前まで譲吉の事を想っていました。あらすじの終盤にある通り、二つの贈り物が何よりの証拠です。こうした贈り物を受け取った彼の心持ちは恐らくこうでしょう。「念願の大島を貰った事もそうだが、それ以上に夫人の暖かさを改めて感じられた事は嬉しい。しかしこれを受け取った自身の態度というものは誰に指し示せばいいのか。夫人は死後も俺の世話をしてくれているというのに、俺はもう何もできる事はない。」夫人からの、死後送られてきた心尽くしは、かえって譲吉の夫人という存在への甘えを浮き彫りにしてしまったのでした。そしてその二度と返す事のできない恩といういうものが、この作品の読後感に皮肉と暗さをあたえているのです。

2017年2月9日木曜日

仇討三態ーその三(修正版)

江戸牛込二十騎町の旗本、「鳥居孫太夫」の家では、客も絶えた正月五日の晩、奉公人達が祝いの酒を囲っていました。興は衰えることなく、皆が気を良くしているところに、料理番の嘉平次までもがたまらなくなってやってきました。彼は奉公人達に煽てられ、徐々に気を良くしていきました。その様子を見ていた人々は次第に、このまま彼を煽てて遊んでやろうという心が芽生えはじめます。その中でもお庭番の中間の、
「なんでもお前さんは、若い時は大名のお膳番を勤めたことがあるそうだが、本当かな!」
「お膳番といえば、立派なお武士だ!」
   などという言葉はより嘉平次を優越感を満たしました。しかし、これらは彼の嘘であり、実際にお膳番として出世したお武士は、彼の旧主の「鈴木源太夫」だったのです。
    そのうち、話は何故彼がそんな立派な役職を棒に振ったのか、という話題へと移り変わっていきます。彼は、源太夫の逸話からそれらしいものを探そうとしました。ですが、実際のところ、源太夫は当時「幸田某」の妻と横恋慕をして、聞き入れて貰えなかった腹いせに旦那をきってしまったという、武士の逸話としてはあまりに不始末なものだったのです。そこで嘉平次は、源太夫が、正確には自分がお武士でありながらお膳番として働いている事を貶され、口論の末に切ってしまった事にしたのでした。そしてその証拠として、彼は二の腕の傷を見せました。これは無論、別につくったのでしたが、人々を納得させるには充分な効果を持っていました。
   ところが、彼の嘘というものは真実味を帯び過ぎていました。というのも、なんと幸田某の娘、「おとよ」が嘉平次を自身の敵討ちと勘違いして殺してしまったのです。更に不幸な事に、この敵討ちは江戸の隅々にまで知れ渡ってしまい、嘉平次は本当に鈴木源太夫として裁かれたのでした。

   この作品では、「他人の人生を借りて自慢してしまったが故に、他人の業まで背負わなければならなくなっていった、ある料理番」が描かれています。

   この作品による最大の不幸は、嘉平次の一時の優越感に浸りたいという、誰しもが少しは抱く出来心が、人々の心に真実としてすっかり定着し、その挙句に殺されてしまったというところにあります。そして多くの読者は、多少なりとも、「何も殺されなくてもよかったのに」という想いを抱くことでしょう。
   しかし敢えて嘉平次に非を見出すとするならば、鈴木源太夫の人生の背後に何かが潜んでいるのかを考えず、ただ、お武士である、大名のお膳番であるといった表の部分のみを追いかけてしまっていたところにあるのです。例えば芸能人というものは一見華やかな世界であり、自身の生まれながらの個性を修正されることなく、維持したまま、それを商品として稼いでいる姿は多くの人々にとって憧れの人生としてうつっている事でしょう。ですが、自分自身が商品であるという事は、一般人よりも、その人生が傷つく事を決して許されるようなものではないという事です。その証拠に、不倫や不祥事に関して人々は敏感で、一旦傷がついてしまうと活動を自粛したり、時には商品として扱う事が出来なくなります。
   そうした憧れの目でしまう事は決して悪い事でありませんが、羨ましがってばかりでその裏側が見えないのは如何なものでしょうか。そしてこの物語の嘉平次の失敗というものは、極端な例ではありますが、そうした表面だけを愛でるような生き方をして来なかったからこそ、そうした顛末しかまっていなかったのです。

2017年2月3日金曜日

仇討三態ーその二ー菊池寛(修正版)

   鈴木忠二郎、忠三郎の兄弟の弟は、敵討ちの旅に出て八年の後、親の仇である和田直之進の居場所を突き止める事が出来ました。しかし一人討つのでは、当座にいない兄の無念を考え、途中別れた道を戻り、迎えに行く事にしたのです。ところが二人がその場に行きついた時には、直之進は既に病死していたのでした。そして兄弟は八年の旅が徒労に終わった事、仇討ちを果たせなかった事の無念という苦い韮を噛み締めながら、故郷へ帰っていったのでした。
   故郷に帰った彼らを待っていたのは、人々の罵詈雑言の数々でした。敵討を躊躇している間に死なれた、或いは病死した者が本当に和田直之進とも確認せずに帰参した。一番酷いものでは、兄弟は八年の敵討ちに飽きておめおめと帰ってきたのだという者までいます。ですが兄弟が一番悲しかったのは、そうした疑いを晴らす機会が、永久に来ない事でした。
   そして兄弟の味わうべき韮は、まだ尽きてはいません。彼らと同藩である久米幸太郎兄弟は、実に三十余年の月の末、敵討ちを果たし帰ってきたのです。彼らの栄光を比較する為、市井の人々は鈴木兄弟を引き合いに出して噂しました。韮はそれだけではありません。実は鈴木と久米は遠い縁者であり、忠二郎は敵討ちをの祝いの席に出席せねばならなかったのです。忠二郎は、ここで欠席すれば、人々から新たに後ろ指を指される種を自らつくってしまうと思い、必死の覚悟で酒宴に連なりました。
   その当日、夜も更け、客が一人一人と抜けていく中で、それを見計らって久米幸太郎から酒を一杯貰いにいきました。その際、「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」と彼を労わりました。この真摯な同情のこもった言葉を聞いた忠二郎は、つい愚痴っぽくなり、幸太郎達を羨ましがったのです。彼は男泣きに泣きました。しかし幸太郎は制するように、
「何を仰られるのじゃ。一旦敵を持った者に幸せなものがござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過ごした者の悲しみをご存じないのじゃ。」
   と、大粒の涙を零しながら言いました。忠二郎は傷ついた胸が和らぐような想いがすると共に、幸太郎と共に涙を流したのです。

   この作品では、「仇討ちの失敗が、かえって成功者との理解を深めていくきっかけとなっていった、ある敵討ち」が描かれています。

   感情の理解という意味において、この作品の中で主体的に動いている人物は、忠二郎ではなく、主に幸太郎の側です。ですので、ここはひとまず、幸太郎の中で、忠二郎の内面をどのように見つめていったのかを整理していく事が妥当でしょう。
   そしてその大きな手助けとなったものが、敵討ちの失敗でした。同じ敵討ちという目標を掲げて故郷を出発したにも拘わらず、自分たちは成功し、鈴木兄弟は失敗した事に関して、幸太郎は同情を寄せずにはいられなかったはずです。そうして彼は自らの体験をもとにして、忠二郎の内面を追体験しはじめます。しかし、彼の八年という旅路が徒労に終わり、人々から受ける屈辱に耐えなければならぬ兄弟に同情する一方で、一方引いた視点から更に自分達の旅路と彼らの旅路の比較をした事でしょう。そして自分たちの三十余年という、自分たち敵討ちの特殊的な在り方を再確認したのです。
   またそれを受けた忠二郎にも変化が当然にありました。それまで自分達の無念ばかりに囚われて、自分の世界に閉じこもっていた彼にとって、幸太郎の「何を仰られるのじゃ。一旦敵を持った者に幸せなものがござろうか。(以下略)」という言葉は、自分知らない痛みがまだあったのか、という衝撃があったはずです。そして互いの、誰にも知り得る事の出来ない痛みが、互いにある事を忠二郎は知った為に、共感の涙を流す事が出来たのでした。