父を殺された事をきっかけに、仇討ちを志した惟念は、それに十六年間という、長い月日を費やしました。しかし仇討ち相手は一向に見つからず、遂には自身の仇討ちの成功を祈っていた母親までもが死去してしまう始末。そして途方に暮れた彼は、得度して雲水として仏道修行に励んでいました。ところが、得度したとは言え、惟念の中には依然として復讐の心が微かに残っているのです。
そんなある日、とある老僧が彼の前に現れます。顔立ちは惟念の前にいたので確認することはできませんでしたが、その作務衣は、在俗の頃に来ていたものらしく、なんと惟念の仇討ち相手と同じ紋があったのです。これには彼も動揺し、これまで自身の内にあった復讐心がこみ上げてきました。が、仏道に励む自分が、在俗の頃の事情を持ち出すべきではないし、未だ仇討ち相手ときまった訳ではないと思い、その心を鎮めます。又、彼の持ち得る数少ない情報では、仇討ち相手の右顎には傷があるらしいのです。ですから彼は、決して顔は見ないようにしようとしました。
ところが、ひょんな老僧の仕草から、その顎を見てしまいます。そしてそれは矢張り、惟念の仇討ち相手に相違ありませんでした。刹那、「おのれ!」という言葉が口をついて出かかりましたが、彼の道心は辛うじて打ち勝ち、老僧を痛めつけてやりたいという衝動を抑えることが出来たのです。
ですが、自分の心が信用できない惟念は、二度と未練がましい妄執に囚われないように、何かに誓っておきたい気持ちになりました。そこで、一層の事老僧に打ち明けて、現在の自分が復讐とは無縁の身である事を伝えておこうと思ったのです。しかしながら、今度は事情を知った老僧が仇討ちを進めまじめます。
「われらは、身上の有付きなきための、是非なき出家じゃ。御自分は違う。われらを討ち申されて帰参なさるれば、本領安堵は疑いないところじゃ。その上、我らを許して安居を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢などは思いも及ばぬことじゃ。」
このような言葉は、惟念の覚悟を揺さぶるのに、充分な効果を持っていました。が、またしても彼は迷いに打ち勝ち、笑い飛ばしてしまいます。
その夜、雲水たちには座禅を休止するお触れが出ていましたが、惟念にとっては大切な一夜だったので、ただ一人座禅に励みました。すると、眼前にいる父の敵を打たなかった事への悔恨が強烈に彼を支配しようとしますが、それが徐々に薄れていき、やがては神々しい薄明かり
がその心の内をほのかに照らすような心持ちになっていったのです。
その後、惟念んは床に就きますが、なかなか眠る事ができません。そして漸く眠気が襲ってきて目を瞑ったかと思うと、何者かが彼の前に立っていたのです。それは昼間の老僧に他なません。彼は惟念の言葉が信じられず、逆恨みによって殺しに来たのでした。それに対して憐憫の心を惟念は感じましたが、すぐに消えていき、
「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」
と言って、再び目を瞑ったのでした。この次の日、老僧は彼の前から姿を消しました。
この作品では、〈日々の仏道修行によって、己れの復讐心を信仰へと変えていった、ある愚僧〉が描かれています。
武士の子として生まれ、復讐を宿命づけられた惟念は、その半生を仇討ちに捧げてきました。しかし、母の死をきっかけに得度し、仏道の道を志していたところに、ひょっこりと仇討ち相手と遭遇してしまったところから、物語は進んでいきます。そしてその最後に、仇討ち相手は性懲りも無く、惟念の心中が信用できないという理由から、今度は彼自身の命を奪おうしました。しかし惟念はそのような事には頓着せず、他人事のように眠りに就いていったのです。この場面は、読者たる私たちに大きな衝撃を与えた事でしょう。それでは、あれ程復讐の念を捨て切れなかった彼が、このような境地に至るまでには、どのような葛藤があったのかを見ていきましょう。
そもそも、彼が得度する以前から、このような葛藤があった事が考えられます。何せ半生をかけた生き方だったのですから、そう簡単に捨てられる筈もありません。では、どのようしてその復讐心を捨て去っていったのでしょうか。それは彼が母を失った時に感じた強烈な虚無感が、関係しています。
例を持ち出して説明しましょう。例えば、医学生がその研修の際、肺がんで亡くなった患者の肺を見て、喫煙を決意するなどと言った話はよく耳にします。大抵の場合は一週間程度で再び喫煙者は喫煙を再開してしまうらしいのですが、ごく一部の生徒は禁煙に成功するのも事実です。彼らと再び喫煙をはじめた生徒の分水嶺とは、その時その時の誘惑に打ち勝ち続けられたのか、という事に他なりません。肺がん患者の肺を見た衝撃は同じでも、それを持ち続けられるかどうか、そしてその打ち勝ち続けた実績が禁煙への決意を一層強くしていったのでしょう。
そして禁煙と復讐とでは、ベクトルもレベルも違いますが、その心の揺れ動きに関しては、同じ事が言えるでしょう。恐らく、修行を始めた当初、惟念は何度も何度も、自身の復讐心が彼を支配しようと襲ってきたはずです。しかし、母を失った虚無感がそれを妨げ、復讐の他に生きる道を探そうとして、仏道へと戻す手助けとなった事でしょう。そして、その打ち勝った実績が彼の信仰の強さとなって表れているのです。
だからこそ惟念は、自身の仇討ち相手が眼前に現れ、これまでにない強烈な衝動に身を動かされそうになっても、それまで積み上げてきた自分がそれを支え、結果として、完全に克服する事が出来たのでした。
2017年1月31日火曜日
2017年1月29日日曜日
入れ札ー菊池寛(修正版1)
上州岩鼻の代官を斬り殺した「国定忠次」は、赤山城に籠城していましたが、そこが防ぎきれなくなると、十数人の子分を連れて信州へと逃げていきました。しかし他国へと逃げる為には、現在の子分達の人数が多すぎる為、その中から数人をお供として選ばなければなりません。途端、忠次の心中には、「喜蔵」、「嘉助」、「浅太郎」の三人の名が思い浮かびました。
ですが、そもそも籠城する以前は五十人いた子分達も、今ではその一握りの十一人で、彼等の忠次への忠誠は尋常なものではりません。そして、これまで苦楽を共にした子分達の中から誰からを選ぶことは、そこに優劣をつけることにもなります。子分を想う忠次の心は、その三人の名を口から告げる事を許してはくれません。そこで子分達との思案の結果、入れ札によって、忠次の付き人「三人」を決めようということになりました。
ですが、入れ札によって決める事が厄介だと感じている者もいました。少なくとも、「九郎助」はそう考えていました。彼は忠次一家の一番の古株で通常であれば、彼こそが第一の兄分でなければなりません。しかし現実の彼は近年の自身の失態から、その十数年培ってきた声望がめっきり落ちてしまっていたのです。また九郎助の側でも忠次とまったく同じ、三人の名前が頭に浮かびました。一方自分の側で辛うじて入れてくれそうな人物と言えば、彼と同期で後輩連中の台頭を快く思っていない「弥助」以外は思いもつきません。
そんな事を考えていると、遂に弥助から筆を渡され、九郎助の番が回ってきました。この時弥助は意味ありげな、好意の眼差しが送られました。すると九郎助は、どうしてもあと一枚が欲しくなります。自分の票以外を除き、例の三人の票が割れると考えれば、 三枚が必要になってくるのです。そしてこの時、そうした彼の気持ちを後押しする言葉がその手を動かします。
「おい!阿兄(あにい)!早く廻してくんな!」
それは浅太郎の、目下を叱るような口調でした。そしてこの言葉が彼の競争心に火をつけ、その命運を分けたのです。
この作品では、〈自身の意地から、組織の中での自分の立場というものにこだわり過ぎたが故に、かえって恥をかいていったある子分〉が描かれています。
物語の行方を追う前に、九郎助が何に対して悩んでいたのか、もう一度これまでの話を整理してみましょう。彼も他の子分同様、忠次には並々ならぬ忠誠を感じていた事は間違いのない事実です。そしてその上、彼が一家の古株で、忠次と共に組織を引っ張ってきた時代もあった事、年輩で本来であれば重要な位置にいなければならないものの、過去の失態から失墜している事を考えれば、その悩みというものがどのようなものか見えてきます。
つまり入れ札を提案され、参加している時の九郎助は、組織の中での自分というものを、この時強く意識しているのです。そしてこれは、彼がそれまでの組織での月日を思い返す一方で、子分達の態度がその年数分の扱いを許してはいないという現状への不満からきているのです。
そしてそれを象徴するような出来事が、あらすじの最後の部分にあたります。恐らく九郎助は、自分より若い浅太郎に催促された事で、それまで心中に抱いていた不満を爆発させ、自分自身の名前を書いてしまったのでしょう。
ところがこの直後、彼の心を揺さぶる一言が、なんと九郎助当人の心の内から湧き上がってきたのです。「博打は打っても、卑怯なことはするな。男らしくねえことはするな」これは彼の心の中の忠次の像が彼に怒鳴っている台詞と言えます。そしてこれは彼の忠誠心が起因してると考えても良いでしょう。そして、それまで自分から組織を見つめていた九郎助は、今度は組織の中から自分を見つめていくようになっていくのです。つまり、組織人として今取るべき行動があったにも拘わらず、自分の欲求を満たす為に組織を利用しようとした、という後悔の念に駆られていきます。そして、入れ札の結果もその追い風となっていきました。というのも、結果してやはり誰もが浅太郎、喜蔵、嘉助に入れており、同時にそれは九郎助以外の誰しもが、自分の、忠次に付き添いたいという気持ちを棚上げして、組織の構成員としての役割を果たした事を意味するのです。
こうして彼は自分の意地というものを組織の中から見つめてしまったが為に、かえってその意地の悪さを自覚せねばならなくなっていったのでした。
ですが、そもそも籠城する以前は五十人いた子分達も、今ではその一握りの十一人で、彼等の忠次への忠誠は尋常なものではりません。そして、これまで苦楽を共にした子分達の中から誰からを選ぶことは、そこに優劣をつけることにもなります。子分を想う忠次の心は、その三人の名を口から告げる事を許してはくれません。そこで子分達との思案の結果、入れ札によって、忠次の付き人「三人」を決めようということになりました。
ですが、入れ札によって決める事が厄介だと感じている者もいました。少なくとも、「九郎助」はそう考えていました。彼は忠次一家の一番の古株で通常であれば、彼こそが第一の兄分でなければなりません。しかし現実の彼は近年の自身の失態から、その十数年培ってきた声望がめっきり落ちてしまっていたのです。また九郎助の側でも忠次とまったく同じ、三人の名前が頭に浮かびました。一方自分の側で辛うじて入れてくれそうな人物と言えば、彼と同期で後輩連中の台頭を快く思っていない「弥助」以外は思いもつきません。
そんな事を考えていると、遂に弥助から筆を渡され、九郎助の番が回ってきました。この時弥助は意味ありげな、好意の眼差しが送られました。すると九郎助は、どうしてもあと一枚が欲しくなります。自分の票以外を除き、例の三人の票が割れると考えれば、 三枚が必要になってくるのです。そしてこの時、そうした彼の気持ちを後押しする言葉がその手を動かします。
「おい!阿兄(あにい)!早く廻してくんな!」
それは浅太郎の、目下を叱るような口調でした。そしてこの言葉が彼の競争心に火をつけ、その命運を分けたのです。
この作品では、〈自身の意地から、組織の中での自分の立場というものにこだわり過ぎたが故に、かえって恥をかいていったある子分〉が描かれています。
物語の行方を追う前に、九郎助が何に対して悩んでいたのか、もう一度これまでの話を整理してみましょう。彼も他の子分同様、忠次には並々ならぬ忠誠を感じていた事は間違いのない事実です。そしてその上、彼が一家の古株で、忠次と共に組織を引っ張ってきた時代もあった事、年輩で本来であれば重要な位置にいなければならないものの、過去の失態から失墜している事を考えれば、その悩みというものがどのようなものか見えてきます。
つまり入れ札を提案され、参加している時の九郎助は、組織の中での自分というものを、この時強く意識しているのです。そしてこれは、彼がそれまでの組織での月日を思い返す一方で、子分達の態度がその年数分の扱いを許してはいないという現状への不満からきているのです。
そしてそれを象徴するような出来事が、あらすじの最後の部分にあたります。恐らく九郎助は、自分より若い浅太郎に催促された事で、それまで心中に抱いていた不満を爆発させ、自分自身の名前を書いてしまったのでしょう。
ところがこの直後、彼の心を揺さぶる一言が、なんと九郎助当人の心の内から湧き上がってきたのです。「博打は打っても、卑怯なことはするな。男らしくねえことはするな」これは彼の心の中の忠次の像が彼に怒鳴っている台詞と言えます。そしてこれは彼の忠誠心が起因してると考えても良いでしょう。そして、それまで自分から組織を見つめていた九郎助は、今度は組織の中から自分を見つめていくようになっていくのです。つまり、組織人として今取るべき行動があったにも拘わらず、自分の欲求を満たす為に組織を利用しようとした、という後悔の念に駆られていきます。そして、入れ札の結果もその追い風となっていきました。というのも、結果してやはり誰もが浅太郎、喜蔵、嘉助に入れており、同時にそれは九郎助以外の誰しもが、自分の、忠次に付き添いたいという気持ちを棚上げして、組織の構成員としての役割を果たした事を意味するのです。
こうして彼は自分の意地というものを組織の中から見つめてしまったが為に、かえってその意地の悪さを自覚せねばならなくなっていったのでした。
2017年1月27日金曜日
風ばかー豊島与志雄(修正版1)
子供達は学校の先生から、人間はよく見ると左右で異なる形をしており、歩くときも目隠しをしていれば、大抵どちらかにずれてしまうという話を聞きます。しかし、その話をにわかには信じられない彼等は、野原へと向かい、その検証をはじめました。ですが、矢張りどちらかに偏り、まっすぐ歩けません。そんな中「マサちゃん」という男の子だけは、自分の歩く癖を把握し、歩く事ができたのです。そこで子供達はマサちゃんに教わりながら、偏らずに歩く練習をはじめました。
やがて日も暮れて練習もそろそろ終わろうかという時に、マサちゃんはみんなに対してお手本を見せようとします。ところが先程とは違い、うまく歩く事ができません。彼曰く、風が邪魔をしているというのです。そしてマサちゃんの耳元では、風が「ばかー、ばかー……」と声を立てているような錯覚を感じはじめます。これには流石のマサちゃんも憤慨し、「ばかー」と怒鳴り返すのでした。
家に帰ると、マサちゃんはお父さんに今日あった出来事を話しました。するとお父さんは、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」
と言って笑いました。対するマサちゃんはこう返しました。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
このマサちゃんの発言を受けてお父さんは笑い出します。そしてマサちゃん自身も、自分のこの結論に納得するかのように笑ったのでした。
この作品では、〈風という実体のない存在を、素直な子供心によって理解しようとするが故に、現実のものと遊離したもとして扱わなければならなくなっていった、失敗〉が描かれています。
この物語の最後にある、お父さんとマサちゃんの笑い方には、表現は同じでも、そこに含まれている内容については大きな違いがあります。それでは、それがどのようなものなのか、二人の会話を振り返る中で見ていきましょう。
マサちゃんの話を聞いたお父さんは、風というものは息と同じく自然にあるものだから、そうした自然に逆らうことの愚かしさをマサちゃんに伝えようとします。しかし、マサちゃんは風の正体が何であるのかが気になったらしく、会話は下記のように続きます。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
しかしこうしたマサちゃんの発言に対して、お父さんは言葉に窮してしまいます。何故ならば、この時点でマサちゃんは風というものが実体を持った存在であり、必ず何処かに潜んでいると考えているからに他なりません。対するお父さんは、風には実体がなく、自然が起こす何らかの現象が風である事は理解しています。ところがそうした常識的な観点はあるものの、それを説明するまでの知識を持ち合わせてはいません。そこでこの矛盾を解消すべく、「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」と、息というものとそれを発生させている実体とを切り離して、お父さんはマサちゃんに説明しようとします。
しかし、次のやりとりに注目してください。
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
どうやら風というものが、実体がないところまでは理解できたようですが、マサちゃんのこの理解の仕方では、「だけ」という言葉に気をとられ過ぎてしまうあまりに、息を吹かしている実体が完全に消失してしまい、息が現実のものとは独立した形で現れているのです。
このマサちゃんの失敗をもう少し分かりやすくする為に、例を取り上げて見ていきましょう。例えば、癌という病気がありますが、これは常識的な見方をすれば、神様が人々の身体に癌なる異常な物質を私達に与えたものなどではく、日常生活での不衛生、或いは不規則な生活が、身体の細胞を癌化させているという事になります。また、数百年前までは、病気というものは悪魔の仕業や祟り等のせいにされてきましたが、現在の常識では、生活の問題として取り扱うようになりました。
このように、一般的に病気と呼ばれているものは、非現実的なところからいきなり出現したものではなく、現実の在り方からあらわれた現象として扱うべきであり、物語のマサちゃんにしても、このような観点がないからこそ、風が、或いは息がパッと出てきたかのような理解にしか至らなかったのです。
ですから、この二人の笑いの違いというものは、マサちゃんのそれは、自分たちとは違い、自由が利かない風をあざ笑っています。対するお父さんは、こうしたマサちゃんの子供心ながらにも風を理解しようとして失敗している、そのあどけなさを笑っているのです。
やがて日も暮れて練習もそろそろ終わろうかという時に、マサちゃんはみんなに対してお手本を見せようとします。ところが先程とは違い、うまく歩く事ができません。彼曰く、風が邪魔をしているというのです。そしてマサちゃんの耳元では、風が「ばかー、ばかー……」と声を立てているような錯覚を感じはじめます。これには流石のマサちゃんも憤慨し、「ばかー」と怒鳴り返すのでした。
家に帰ると、マサちゃんはお父さんに今日あった出来事を話しました。するとお父さんは、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」
と言って笑いました。対するマサちゃんはこう返しました。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
このマサちゃんの発言を受けてお父さんは笑い出します。そしてマサちゃん自身も、自分のこの結論に納得するかのように笑ったのでした。
この作品では、〈風という実体のない存在を、素直な子供心によって理解しようとするが故に、現実のものと遊離したもとして扱わなければならなくなっていった、失敗〉が描かれています。
この物語の最後にある、お父さんとマサちゃんの笑い方には、表現は同じでも、そこに含まれている内容については大きな違いがあります。それでは、それがどのようなものなのか、二人の会話を振り返る中で見ていきましょう。
マサちゃんの話を聞いたお父さんは、風というものは息と同じく自然にあるものだから、そうした自然に逆らうことの愚かしさをマサちゃんに伝えようとします。しかし、マサちゃんは風の正体が何であるのかが気になったらしく、会話は下記のように続きます。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
しかしこうしたマサちゃんの発言に対して、お父さんは言葉に窮してしまいます。何故ならば、この時点でマサちゃんは風というものが実体を持った存在であり、必ず何処かに潜んでいると考えているからに他なりません。対するお父さんは、風には実体がなく、自然が起こす何らかの現象が風である事は理解しています。ところがそうした常識的な観点はあるものの、それを説明するまでの知識を持ち合わせてはいません。そこでこの矛盾を解消すべく、「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」と、息というものとそれを発生させている実体とを切り離して、お父さんはマサちゃんに説明しようとします。
しかし、次のやりとりに注目してください。
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
どうやら風というものが、実体がないところまでは理解できたようですが、マサちゃんのこの理解の仕方では、「だけ」という言葉に気をとられ過ぎてしまうあまりに、息を吹かしている実体が完全に消失してしまい、息が現実のものとは独立した形で現れているのです。
このマサちゃんの失敗をもう少し分かりやすくする為に、例を取り上げて見ていきましょう。例えば、癌という病気がありますが、これは常識的な見方をすれば、神様が人々の身体に癌なる異常な物質を私達に与えたものなどではく、日常生活での不衛生、或いは不規則な生活が、身体の細胞を癌化させているという事になります。また、数百年前までは、病気というものは悪魔の仕業や祟り等のせいにされてきましたが、現在の常識では、生活の問題として取り扱うようになりました。
このように、一般的に病気と呼ばれているものは、非現実的なところからいきなり出現したものではなく、現実の在り方からあらわれた現象として扱うべきであり、物語のマサちゃんにしても、このような観点がないからこそ、風が、或いは息がパッと出てきたかのような理解にしか至らなかったのです。
ですから、この二人の笑いの違いというものは、マサちゃんのそれは、自分たちとは違い、自由が利かない風をあざ笑っています。対するお父さんは、こうしたマサちゃんの子供心ながらにも風を理解しようとして失敗している、そのあどけなさを笑っているのです。
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