そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
この作品は、〈千恵子の死に際を思い出すあまり、かえって自分の生活の中に彼女の匂いを探さなければならなかった、ある詩人〉が描かれています。
この作品は大きく分けて、2つの時間軸によって構成されています。はじめの行から最後の3行までが千恵子が死ぬ直前の出来事、そして最後の2行は現在の詩人の生活の一部を描写しているのです。では、これら2つの時間というものは、お互いにどのような繋がりを持っているのでしょうか。
精神分裂を患っていた千恵子は、レモンをかじる以前は意識が朦朧としているのか、或いは常軌を逸した行動をしていたのか、兎に角異常な状態にあったようなのです。ですが、詩人光太郎からレモンを受け取りかりりと噛むと徐々に〈ほんらいの〉彼女を取り戻していきました。それが光太郎にとっては〈本当の〉彼女と過ごした最後の時間となってしまったのです。
ここで彼はレモンをかじり意識を取り戻した千恵子を見て、後にレモンに対して2つの印象を持つことになっていきます。ひとつは異常だった彼女を正常な意識に戻したということ。そしてもうひとつは、彼女と自分とが共有できた最後の思い出の象徴としての側面。
そしてこれらの2つの印象から最後の2文に至っているわけなのですが、では彼はどのような心持ちで桜の花かげにレモンを置いているのでしょうか。勿論、最後の思い出の象徴として、レモンを写真に添えているのですが、その思い出というものの中に、レモンを齧った異常な千恵子が正常なものなっていったという側面があることを忘れてはなりません。つまり彼は写真の前にレモンを添えることであの時のように彼女が息を吹き返すのではないかという、淡く儚い思いを抱いていたのです。
こうして毎日写真の前にレモンを添えることで、彼は彼女の死を意識していくと同時に、彼女の死を受け入れられず、死んではいないのではないかという思いとの板挟みになっていったのでしょう。私達から見ればその2文というものは何気ないものに見えてしまうかもしれませんが、そこにこそ妻に先立たれていった詩人の受け入れがたい苦悩が存在しているのです。
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