あなたが上司や部活のリーダーなど、人を先導する立場に立った時、或いは自分とは違う立場の人間と意見を交わしている時、部下がなかなか自分の言葉を受け 入れてくれず困ってしまった、話し合いが感情的な口論へと発展していってしまったという経験はないでしょうか。かく言う私自身も、昔大学のサークルで副部 長をつとめていた時に、部長と部活の運営について話していたにも拘らずどういうわけか激しい口論になってしまったこともありますし、現在でも似たような悩 みを抱えていました。
と言いますのも、私は現在介護士として暮らしの生計をたてているのですが、ある利用者さんが私を含めた職員の誘導を促す言葉(私たちの世界ではこれを「声 かけ」と呼んでいます)をなかなか聞き入れてくれない時があり、その方に右へ左へ左へ右へと振り回されていたのです。半ば途中でその方に振り回されること も仕方がないのでは、と考えてしまうこともありました。
しかし私は問題を客観的に観察し、「声かけ」に工夫を凝らすことで少しずつ問題を解消していきました。その方自身も(私はその場にいる限りではありますが、)今ではより穏やかな毎日を過ごしているように思います。
ところで私が上記の問題に対して解決していった過程には、今思えばこの『人を動かす』の一般性が大きく横たわっていたのです。そこで今回は、若輩者の数少ない経験を踏まえながら本書を論じていきたいと思います。
はじめに結論から言いますと、本書では〈人に意欲的に動いてもらうよう、相手の欲求を満たす〉と言う事が論じられています。
この一般性というものは、フローレンス•ナイチンゲールの『看護覚え書き』の一般性にならい、抽出しました。この著書は彼女の看護経験から看護士が何を 扱っているのか(対象論)、それをどのような状態にもっていくのか(目的論)、またどのようにそうするのか(方法論)、という看護のあり方を一般化し、そ れに基づいて衛生看護を中心とした方法論が論じられています。そしてその一般性を下記に記しておきました。
〈生命力の消耗を最小にするよう、生活過程をととのえる〉
次に私はこれらを対象論、目的論、方法論に分け、この形式を本書に適応させていったのです。
対象論→生命力
目的論→消耗を最小にする
方法論→生活過程をととのえる
対象論→人
目的論→意欲的に動いてもらう
方法論→相手の欲求を満たす
ここで私が読者の方々に注意して頂きたいのは、この対象論にあたる「人」というのは人類すべての人々を指している訳ではありません。本文に「およそ人を扱 う場合に、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するということをよく心得てお かねばならない。」(p.28参照)とあるように、理性的な人々は対象としておらず、感情的な人々、ごく一般的な人々を対象として書かれているのです。
そして私が携わっている利用者も、否、特に心身の崩壊が目に見えはじめている彼、彼女らは、通常の人々とは違い、理性による抑制がきかず、より感情的で落ち着いて考える事ができない人々と言わざるを得ません。
次に、こうした人々に私たちはどのようになって貰いたいのか、つまり目的論について考えていきましょう。安直にタイトルのみを見れ ば、「動かす」ということに終止してしまうます。しかし本書には他にも、「人に好かれる」、「人を説得する」、「人を変える」といった同じ概念の項目があ る事は見過ごせません。そしてこれらの項目は各その中にある章を見て察するに(笑顔を忘れない、心からほめる、議論をさけるなど)、方法論の束になってい るようなのです。またそれらは人に強制していない、結果的に他人が自分たちの思惑通りに動いた、誰かの意思によって動いているのではなくその人の意志で決 定し動いている、という点で共通しています。こうした点から、本書で述べられている目的 というものは、相手に「意欲的に動いてもらう」ことにある、という事が理解できます。
ところが現実はなかなかそうはなりませんね。何故なら私たちの要望の中に、相手が不快に感じたり相手の立場や環境がそれを拒否させてしまったりするからな のです。本文の中にも、ショップ店員という立場から返品お断りを客に厳守させようとする女性や、こちらの強制的なもの言いに言う事を聞かない子供などが登 場します。
私の場合もやはり同じでした。職員という立場から、私たちはその方につい強いもの言いで強制したり、こちらの都合ばかりを相手に述べてしまっていました。 ですから結果的にその方はほんらい私たちがその方に望んでいる姿を拒否するばかりか、一番望んではいない行動(他の利用者を非難する、暴言を吐くなど)を とっていくのでした。
ではこれらの人々をどのように目的どおりの人に近づいてもらうのか、その方法について考えなければなりません。それは本文に明確な形で記されてありました。
「人を動かすには、相手の欲しているものを与えるのが、唯一の方法である。」
今思えば、私はこれを読む以前に、問題の利用者さんに自然とそれを行っていたのです!まずその方が何を望んでいるのか、冷静に日頃の台詞を考えノートに書 き出しました。次に相手の不快な感情を起こさせる言葉は極力さけるように努めていったのです。例えば、「どうしてそういう事をするんですか?」や「私たち のいう事をきかないからそうなるんです!」といった台詞がそれに該当します。
そ して相手に自分がその方を気にかけている事を言葉や仕草で表現していきました。これは本文で言えば、1-2「重要感を持たせる」にあたります。その方は読 書と映画の話、家族の話が大好きでしたので、私は興味ありげに何度も同じ話を投げかけました。途中自分が話に飽きないように、質問の内容を変えたり、話す 感覚をあける工夫をしたこともあります。これは、2-1「誠実な関心を寄せる」の項目にもありました。このように私はあらゆる方法を尽くして相手の欲求を 満たし、現在ではお互いが不快ない関係を築けていけています。
人を動かす為には、ただ自身の望みを強要するのではなく、逆に相手が自分に何を望んでいるのかを知り実行する事こそが重要だったのです。
2013年5月31日金曜日
2013年5月14日火曜日
羅生門ー芥川龍之介
ある雨の日のこと、主人から暇をだされて行き場をなくしたある下人は、荒廃した羅生門(※1)で雨宿りをしていました。彼はそこで自身の行く末について、盗人になって生き長らえるか、この儘何もせずに死をまつかで悩みあぐねています。そうして右往左往と歩きながら考えていると、老婆が死人の毛をむしり取る光景が目に飛び込んできました。彼女はそれをかつらにして売るつもりなのです。下人はその老婆に憎悪を感じ、成敗しようとします。しかし彼女の言い分を聞いているうちに、どういうわけか彼は盗みを働く「勇気」が内から湧きあがった為に老婆の服を脱がし走り去ってしまうのでした。
この作品では、〈悪事を憎むあまり、かえって自らも悪事を働いてしまったある男〉が描かれています。
ここで読者たる皆さんは、「何故悪に対して嫌悪感を感じていた下人は、自らも盗みを働いてしまったのか」という疑問を持つことでしょう。その疑問を晴らすためには、はじめに彼が具体的に何を悩んでいたのか、ということについて考えなければなりません。そもそも彼が悩みあぐねていた内容とは、下記にある理性(対象化された観念)と本能(自由意志)との矛盾にあります。
理性;悪いことをしてまで生きるべきではない。
本能;悪いことはせずに生きたい。
つまり彼の中での葛藤は、悪い事をするのか否か、ということにあると言えます。(※2)そしてその葛藤の解消のきっかけは下人の行動を見るに、老婆の言い分の中に含まれていたと理解する事ができるのです。その内容が下記にあたります。長いものですが、この作品の根幹を成す台詞ですのであえて注釈には入れませんでした。
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に 買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた 事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女 は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は自分の行動に正当性を持たす為に、大きく分けて2つの理由をここで述べています。ひとつ目は悪人は悪事を誰かから受けても仕方のない存在であるということ。そしてもうひとつは生きるために成す悪事は同情するに値し許される、ということです。さて下人はこれを自身のうちでどう聞き入れたのでしょうか。恐らく、前者にも後者にも同意したことでしょう。それ以前は、悪による反発から彼女を斬りつけようとしていたわけですし(※3)、毛をむしり取らなければ死ぬかもしれない老婆に多少の同情をよせて聞いていたわけですから。(※4)また彼女の言い分は、同時に彼の「盗む事は悪である」という論法を打ち砕くのに十分な破壊力を持ち得ていました。最早、悪人たる老婆に悪事を働いたとしても、彼女は相応の対象なのであり、生きるために悪事を働く行為は悪ではないのです。ですから彼は老婆の話を自分に照らしあわせて考えた結果、「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」と言って老婆の服をはがしてしまったのでした。まさに悪人たる老婆の言い分の中にこそ、彼に悪の道を進ませる要因があったのです。
注釈
1・旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
2・選んでいれば、築士の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
3・ その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
4・「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
この作品では、〈悪事を憎むあまり、かえって自らも悪事を働いてしまったある男〉が描かれています。
ここで読者たる皆さんは、「何故悪に対して嫌悪感を感じていた下人は、自らも盗みを働いてしまったのか」という疑問を持つことでしょう。その疑問を晴らすためには、はじめに彼が具体的に何を悩んでいたのか、ということについて考えなければなりません。そもそも彼が悩みあぐねていた内容とは、下記にある理性(対象化された観念)と本能(自由意志)との矛盾にあります。
理性;悪いことをしてまで生きるべきではない。
本能;悪いことはせずに生きたい。
つまり彼の中での葛藤は、悪い事をするのか否か、ということにあると言えます。(※2)そしてその葛藤の解消のきっかけは下人の行動を見るに、老婆の言い分の中に含まれていたと理解する事ができるのです。その内容が下記にあたります。長いものですが、この作品の根幹を成す台詞ですのであえて注釈には入れませんでした。
「成程な、死人の髪の毛を抜くと云う事は、何ぼう悪い事かも知れぬ。じゃが、ここにいる死人どもは、皆、そのくらいな事を、されてもいい人間ばかりだぞよ。現在、わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ。疫病にかかって死ななんだら、今でも売りに往んでいた事であろ。それもよ、この女の売る干魚は、味がよいと云うて、太刀帯どもが、欠かさず菜料に 買っていたそうな。わしは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた 事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女 は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
老婆は自分の行動に正当性を持たす為に、大きく分けて2つの理由をここで述べています。ひとつ目は悪人は悪事を誰かから受けても仕方のない存在であるということ。そしてもうひとつは生きるために成す悪事は同情するに値し許される、ということです。さて下人はこれを自身のうちでどう聞き入れたのでしょうか。恐らく、前者にも後者にも同意したことでしょう。それ以前は、悪による反発から彼女を斬りつけようとしていたわけですし(※3)、毛をむしり取らなければ死ぬかもしれない老婆に多少の同情をよせて聞いていたわけですから。(※4)また彼女の言い分は、同時に彼の「盗む事は悪である」という論法を打ち砕くのに十分な破壊力を持ち得ていました。最早、悪人たる老婆に悪事を働いたとしても、彼女は相応の対象なのであり、生きるために悪事を働く行為は悪ではないのです。ですから彼は老婆の話を自分に照らしあわせて考えた結果、「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」と言って老婆の服をはがしてしまったのでした。まさに悪人たる老婆の言い分の中にこそ、彼に悪の道を進ませる要因があったのです。
注釈
1・旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
2・選んでいれば、築士の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。選ばないとすれば――下人の考えは、何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へ逢着した。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。下人は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「盗人になるよりほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
3・ その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。
4・「己は検非違使の庁の役人などではない。今し方この門の下を通りかかった旅の者だ。だからお前に縄をかけて、どうしようと云うような事はない。ただ、今時分この門の上で、何をして居たのだか、それを己に話しさえすればいいのだ。」
2013年5月11日土曜日
人を動かすーD・カーネギー 1・人を動かす三原則ー1盗人にも五分の理を認める
本章では、〈他人を指導したり議論する時、その人の気持ちを受け入れる事がいかに重要であるか〉が論じられています。
というのも、私達がものごとに対して問題を発見した場合、他人のせいにしてしまいがちな傾向があるならにほかなりません。それはどうやら自分に原因がある場合でも、また他人に原因がある場合でも関係ないようです。そしてそうした性質は問題の解決に向かうどころか、かえってお互いを避難し合い、本質的な問題とは別のところで新たな問題を生み出してしまう可能性があります。
例えばあなたはこれまで仲良くしていた部活の友達、会社の同僚と部のあり方や仕事に関して議論していたにも拘わらず、いつの間にか激しい口論になってしまっていたという経験はないでしょうか。そしてそうなってしまえば、次回その人と何か重要な事を話さなければならなくなった時、あなたはその問題よりも前に相手との関係を気にする事でしょう。
ですから私達が問題とぶつかり他人を指導したり意見を交わさなければならなくなった場面では、まず自分の側から相手を受け入れる態勢をつくっておくことが重要なのです。こうしておけば例え相手の自分を受け入れる態勢が整っていなくても、平行線になることはないでしょう。相手が自分の意見をなかなか受け入れてくれない場合、自分にもそうさせている要素があることを肝に銘じておかなかればならないのです。
というのも、私達がものごとに対して問題を発見した場合、他人のせいにしてしまいがちな傾向があるならにほかなりません。それはどうやら自分に原因がある場合でも、また他人に原因がある場合でも関係ないようです。そしてそうした性質は問題の解決に向かうどころか、かえってお互いを避難し合い、本質的な問題とは別のところで新たな問題を生み出してしまう可能性があります。
例えばあなたはこれまで仲良くしていた部活の友達、会社の同僚と部のあり方や仕事に関して議論していたにも拘わらず、いつの間にか激しい口論になってしまっていたという経験はないでしょうか。そしてそうなってしまえば、次回その人と何か重要な事を話さなければならなくなった時、あなたはその問題よりも前に相手との関係を気にする事でしょう。
ですから私達が問題とぶつかり他人を指導したり意見を交わさなければならなくなった場面では、まず自分の側から相手を受け入れる態勢をつくっておくことが重要なのです。こうしておけば例え相手の自分を受け入れる態勢が整っていなくても、平行線になることはないでしょう。相手が自分の意見をなかなか受け入れてくれない場合、自分にもそうさせている要素があることを肝に銘じておかなかればならないのです。
2013年5月2日木曜日
『智恵子抄』レモン哀歌ー高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
この作品は、〈千恵子の死に際を思い出すあまり、かえって自分の生活の中に彼女の匂いを探さなければならなかった、ある詩人〉が描かれています。
この作品は大きく分けて、2つの時間軸によって構成されています。はじめの行から最後の3行までが千恵子が死ぬ直前の出来事、そして最後の2行は現在の詩人の生活の一部を描写しているのです。では、これら2つの時間というものは、お互いにどのような繋がりを持っているのでしょうか。
精神分裂を患っていた千恵子は、レモンをかじる以前は意識が朦朧としているのか、或いは常軌を逸した行動をしていたのか、兎に角異常な状態にあったようなのです。ですが、詩人光太郎からレモンを受け取りかりりと噛むと徐々に〈ほんらいの〉彼女を取り戻していきました。それが光太郎にとっては〈本当の〉彼女と過ごした最後の時間となってしまったのです。
ここで彼はレモンをかじり意識を取り戻した千恵子を見て、後にレモンに対して2つの印象を持つことになっていきます。ひとつは異常だった彼女を正常な意識に戻したということ。そしてもうひとつは、彼女と自分とが共有できた最後の思い出の象徴としての側面。
そしてこれらの2つの印象から最後の2文に至っているわけなのですが、では彼はどのような心持ちで桜の花かげにレモンを置いているのでしょうか。勿論、最後の思い出の象徴として、レモンを写真に添えているのですが、その思い出というものの中に、レモンを齧った異常な千恵子が正常なものなっていったという側面があることを忘れてはなりません。つまり彼は写真の前にレモンを添えることであの時のように彼女が息を吹き返すのではないかという、淡く儚い思いを抱いていたのです。
こうして毎日写真の前にレモンを添えることで、彼は彼女の死を意識していくと同時に、彼女の死を受け入れられず、死んではいないのではないかという思いとの板挟みになっていったのでしょう。私達から見ればその2文というものは何気ないものに見えてしまうかもしれませんが、そこにこそ妻に先立たれていった詩人の受け入れがたい苦悩が存在しているのです。
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
この作品は、〈千恵子の死に際を思い出すあまり、かえって自分の生活の中に彼女の匂いを探さなければならなかった、ある詩人〉が描かれています。
この作品は大きく分けて、2つの時間軸によって構成されています。はじめの行から最後の3行までが千恵子が死ぬ直前の出来事、そして最後の2行は現在の詩人の生活の一部を描写しているのです。では、これら2つの時間というものは、お互いにどのような繋がりを持っているのでしょうか。
精神分裂を患っていた千恵子は、レモンをかじる以前は意識が朦朧としているのか、或いは常軌を逸した行動をしていたのか、兎に角異常な状態にあったようなのです。ですが、詩人光太郎からレモンを受け取りかりりと噛むと徐々に〈ほんらいの〉彼女を取り戻していきました。それが光太郎にとっては〈本当の〉彼女と過ごした最後の時間となってしまったのです。
ここで彼はレモンをかじり意識を取り戻した千恵子を見て、後にレモンに対して2つの印象を持つことになっていきます。ひとつは異常だった彼女を正常な意識に戻したということ。そしてもうひとつは、彼女と自分とが共有できた最後の思い出の象徴としての側面。
そしてこれらの2つの印象から最後の2文に至っているわけなのですが、では彼はどのような心持ちで桜の花かげにレモンを置いているのでしょうか。勿論、最後の思い出の象徴として、レモンを写真に添えているのですが、その思い出というものの中に、レモンを齧った異常な千恵子が正常なものなっていったという側面があることを忘れてはなりません。つまり彼は写真の前にレモンを添えることであの時のように彼女が息を吹き返すのではないかという、淡く儚い思いを抱いていたのです。
こうして毎日写真の前にレモンを添えることで、彼は彼女の死を意識していくと同時に、彼女の死を受け入れられず、死んではいないのではないかという思いとの板挟みになっていったのでしょう。私達から見ればその2文というものは何気ないものに見えてしまうかもしれませんが、そこにこそ妻に先立たれていった詩人の受け入れがたい苦悩が存在しているのです。
登録:
投稿 (Atom)