2013年4月23日火曜日

メールストロムの旋渦ーエドガー・アラン・ポー

 ノルウェー北部に発生するメールストロムという大渦を越えて魚を捕っていた漁師、「私」とその2人の兄弟はある台風の時、「私」のちょっとした不注意でそれに呑まれてしまいました。やがてその3人のうち、弟は自分を縛っていた船の帆ごと強風によって飛ばれてしまいます。そして残った兄と「私」は、この大自然の大いなる潮流を目の当たりにして、絶望を感じていくのでした。
 ところが「私」は大渦に近づくにつれて死を覚悟してゆく中で、なんとある時点からそれが「かえって」自身に落ち着きを取り戻させてくれたというではありませんか。更に驚くべきことに、冷静さを取り戻していった彼は自分を死の淵に追いやっている渦そのものに対して興味を抱きはじめていったのです。そうして渦を観察していく中で、彼は渦に砕かれている物体と全くいたんでいない物体がある事を発見し、そうした法則性を利用する事で脱出に成功したのでした。
 ですが彼は何故、自分が窮地に追いやられていったにも拘わらず、落ち着きを取り戻し脱出することが出来たのでしょうか。

 この作品では〈渦に呑まれて絶望するあまり、かえって客観的に物事を見なければならなかった、ある漁師〉が描かれています。

 「私」が主観を失う直前(※1)、彼はこれまでに見たことのないような自然の脅威と偉大さを目の当たりにします。その光景は、彼にはとても現実のものとは思えず、あたかも神話の世界にでも迷い込んだような印象を持たせたのでしょう。そしてこうした事実が現実に起こっているにも拘わらず、それが日常の風景とは大きく異なった場面であった為に、彼は客観性を持つことに成功したのです。
 それは、私達が親しい人々の死に直面した時の心情と少し似通ったところがあるのではないでしょうか。というのも読者の方の中には、友人や家族の死が衝撃として強すぎる為に実感としては受け止められず、何か面白い冗談を聞いたようについ笑ってしまった事はないでしょうか。どうやら私達の心には、主観としては受け止められずとも、客観的に全体を見渡す事で事実を受け入れようという働きが存在しているようです。
 そしてこの作品に登場する「私」も目の前で起こっているありのままの光景、そこにいる自分というものを受け止められないために「どうやら自分はここで死ぬのだろう」と、あたかも他人ごとのように考えるほかなかったのでしょう。そして一度冷静になった彼は、次に自分の置かれている立場を理解する為、あたりを観察しようとします。
 ここで重要なのは、彼が必ずしも主観を捨て客観性を持ち得たのではなく、主観的に死を承知しすぎているからこそ、客観性を持たなければならなかったということです。ですから主観は消滅したのではく、この後も主観的に恐れたかと思えば冷静さを取り戻し、そうかと思えば再び畏怖しはじめるといった複雑な心理状態に陥っていきます。やがてそうして機微に心を変化させていき観察していく中で、彼は自分の置かれている状況を整理していき、渦から脱出することが出来たのでした。自分の置かれている状況の恐ろしさを実感すればする程、より冷静にならなければならなかったのです。

 注釈
1・船は左舷へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電のようにつき進みました。(中略)その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
 奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎に呑まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。

2・胸が悪くなるようにすうっと下へ落ちてゆくのを感じたとき、私は本能的に樽につかまっている手を固くし、眼を閉じました。何秒かというものは思いきって眼 をあけることができなくて――いま死ぬかいま死ぬかと待ちかまえながら、まだ水のなかで断末魔のもがきをやらないのを不審に思っていました。しかし時は 刻々とたってゆきます。私はやはり生きているのです。落ちてゆく感じがやみました。

初めはあまり心が乱れていたので、なにも正確に眼にとめることはできませんでした。とつぜん眼の前にあらわれた恐るべき荘厳が私の見たすべてでした。しかし、いくらか心が落ちついたとき、私の視線は本能的に下の方へ向きました。

2013年4月14日日曜日

村の学校ーアルフォンス・ドーデ

 世界大戦の後のこと、フランスはドイツとの戦争に負けて、アルザス・ローレイヌ州を奪われてしまいます。その為、それまでフランス語を学んでいたアルザスの子供達は、戦後ドイツ語を学ばなければならなくなってしまったのです。
 そしてアルザスにある「私」たちの小さな学校にも、フランス人のハルメ先生の後任として、情け容赦ないドイツ人教師、クロック先生がやってきました。彼はどうのような理由が生徒にあろうとも、自身の規律に従わない者には、体罰を与えます。その為、学校の子供達からはひどく恐れられていました。
 しかし8歳の時に両親をなくし、勉強をこれまでほとんどしなかった少年、ガスパールだけはこの恐ろしい教師に対して反抗的な態度をとっていました。そんな彼はある時、クロック先生や他の子供達と牧場へ遊びに出かけた事をきっかけに脱走を謀ります。ですが、か弱い10歳の少年は冷徹な、ドイツ人教師によって自分の家に帰っているところを呆気なく発見されてしまいました。ところがガスパール本人は、脱走した事に対して悪びれる様子もなく、「あゝ、さうだよ。ぼくはにげて来たんだよ。二度と学校にいきたくないんだよ。ぼくはドイツ語なんか――どろぼうの、人殺しの言葉なんか、話さないよ。父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」と反抗してみせました。しかしいざ大人たちが彼を拘束し、馬車に乗せられると悲しいアルザスの方言で「放しておくれよ、クロック先生。」と哀願しはじめます。そしてその哀願は、傍で聞いていた「私」の耳から夜通し離れる事はありませんでした。

 この作品では、〈母国語を学ばなかった故に、かえって他の人々よりも母国語への思いを強くしていった、ある少年〉が描かれています。

 この作品の主体性というものは、言うまでもなく、ガスパースのドイツ語を学ぶことに対する、他者よりも強い拒否の姿勢から成り立っています。では彼は(フランスがドイツに負けたとは言え、)何故そこまで強くドイツ語を勉強する事を拒否しなければならなかったでしょうか。それはガスパールが両親を失っている事と、これまでまともにフランス語で勉強をしてこなったという2つの要素が大きく関わっているようです。
 彼は「父さんや母さんのやうに、フランス語を話したいんだよ。」という台詞からも理解できるように、どうやら両親という存在とフランス語を強く結びつけています。恐らく、ガスパールは日頃から両親と同じようにアルザスのフランス語を話すことによって、過去の遠い記憶の彼らとの結びつきを強く感じていたのでしょう。また彼はその他でフランス語を用いたり、勉強したりする環境がありませんでした。そうした要素が彼のフランス語と両親との結びつきをより一層強くしているのです。
 ところが彼が幾らドイツ語を拒絶し、フランス語を話して両親との距離を縮めようと試みようとも、ドイツ人による支配が彼の思い出を奪っていってしまいます。この作品のラストで、ガスパールが「放しておくれよ、クロック先生。」とアルザスの方言で訴えるシーンはその事への象徴なのです。そして、こうした「ドイツによるフランス侵略への苦悩」は、この作品に登場するフランス人の誰もが感じている問題でもあります。だからこそ、「私」はガスパールの悲しい訴えがその日の夜離れる事はなかったのです。