元和か寛永かの物語です。裏山の山里村に、「おぎん」と云う童女が住んでいました。彼女の父母は仏教を信仰しており、大阪から流浪した後、すぐに死んでしまいます。そして孤児となったおぎんは、「じょあん孫七」(まごしち)からキリスト教の洗礼を受けて、彼と「じょあんなおすみ」の養女となりました。
ですが、当時は世間のキリスト教への信仰が許されていなかった時代。あるクリスマスの夜、役人たる悪魔は彼らの信仰の現場を発見し、民衆の前で火炙りにかけようとしたのです。唯一助かる方法は、神の教えを捨てることでした。そうすれば、役人は彼らを許してくれると云います。しかし強い信仰心を持った孫七とおすみは、決して悪魔の誘惑には負けません。彼らは、教えを守った先には、はらいそ(天国)へ行き、イエスとマリアの傍にいけると固く信じているのです。
ところが、おぎんだけは違いました。
「わたしはおん教を捨てる事にしました。」
この一言は、群衆や役人だけではなく、孫七やおすみも驚かせました。彼らはおぎんが悪魔にすっかり魅入られてしまったと思っていたのです。やがて諦めの念が二人の心に宿ろうした時、おぎんは口を開きます。
「わたしはおん教を捨てました。その訣はふと向うに見える、天蓋のような松の梢に、気のついたせいでございます。あの墓原の松のかげに、眠っていらっしゃる御両親は、天主のおん教も御存知なし、きっと今頃はいんへるのに、お堕ちになっていらっしゃいましょう。それを今わたし一人、はらいその門にはいったのでは、どうしても申し訣がありません。わたしはやはり地獄の底へ、御両親の跡を追って参りましょう。どうかお父様やお母様は、ぜすす様やまりや様の御側へお出でなすって下さいまし。その代りおん教を捨てた上は、わたしも生きては居られません。………」
このおぎんの決意を受け止めたおすみは、涙を見せはじめます。一方の孫七は、一体何が正しいことであるのか分からなくなっていきました。そして孫七はおぎんの顔を見ました。すると、彼女の眼には無邪気な童女のそれだけではなく、「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」」の光が宿っていたのです。このおぎんの眼に説得された孫七はとうとう堕落し、いんへるの(地獄)へ落ちることを決意します。
後世、この物語は、キリスト教の人々があった受難のうちでも、最も恥ずべき躓きとして残りました。そして悪魔はその夜、それを嬉々として大きな書物に化けて夜中刑場を飛んだといいます。ですが、それほど喜ぶほどのものであったのか、著者は懐疑的だというのです。
この作品では、〈キリスト教としての教えに背いたが故に、かえって自分の中に信仰の光を宿した、ある少女〉が描かれています。
この作品が動きはじめるのは、言うまでもなくおぎんの下記の一言からです。
「わたしはおん教を捨てる事にしました。」
この一言を聞いた時、人々は大きく動揺しました。キリスト教を信仰する人々にとって、信仰を守る為に死んでいくことは、生きていくこと以上に誉れであり、死後の幸福が約束されているのです。そしてそれはいかなる理由があっても背くことがあってはならず、信仰を捨てればいんへるの、つまり地獄へ行くことになっています。ですから孫七たちはおぎんのこの一言を聞いた時、真っ先に悪魔からの誘惑を疑い、必死で彼女を説得しようとしたのでした。
ですが、おぎんのこの意思決定は、生みの親を思ってのことだったのです。と言いますのも、彼女の生みの両親は仏教を信仰していました。無論、これはおぎんたちにとって、間違った信仰の対象であり、死後彼らはいんへるのへ堕ちたと考えられています。ですからおぎんは、いんへるのに堕ちた父母の事を想うと、どうしても一人だけはらいそへ行く気にはなれなかったのです。しかしその一方で、育ての親である孫七やおすみが死ぬ運命にあるにも拘わらず、自分だけ生きていても、二人に申し訳がたちません。そこで彼女は一度信仰捨てた後、自分も死ぬ事を決意したのです。
このおぎんの双方の親を想う気持ちに心打たれたのは、じょあんなおすみでした。彼女はおぎんの決意を聞くと、涙を流しはじめます。無論、これらかはらいそへ行こうという者にとっては、あってはならぬ事です。そんな妻を見て、孫七の心も揺らぎはじめます。命を賭して自分の信仰の正しさを知らしめていこうとしている一方で、養女が生みの親と育ての親、両方の事を想った上で信仰を捨てると言っているのです。恐らく孫七にとって、どちらが正しいものであるか、判断がつかなかった事でしょう。そして彼はふと、おぎんの方を見ました。その様子が下記にあたります。
いや、もうおぎんは顔を挙げた。しかも涙に溢れた眼には、不思議な光を宿しながら、じっと彼を見守っている。この眼の奥に閃いているのは、無邪気な童女の心ばかりではない。「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」である。
「お父様! いんへるのへ参りましょう。お母様も、わたしも、あちらのお父様やお母様も、――みんな悪魔にさらわれましょう。」
孫七はおぎんのこの眼を見て堕落を決意したことが推察されます。一体その眼には、おぎんのどういった信仰、態度が示されていたのでしょうか。それはおぎんとそれまでの孫七やおすみの信仰のあり方と比較することで読み解けれるはずです。
二人の信仰というものは、ただ経典に書かれたキリスト教としての教えを守るという、その一点に過ぎません。それだけを長い間続けてきた彼らはただ教えに従っていれば、自分たちの信仰を貫いたということになります。言わば彼らの信仰は、経典という、彼らの外側にあったことになります。
一方、おぎんの信仰というものはどういったものだったのでしょうか。「生みの親と育ての親を命をかけて大切にしなさい」などということは、恐らくどの経典にも載ってはいません。
ここからは私の憶測になるのですが、育ての親と死別したおぎんは、孫七たちからキリスト教の洗礼を受けて以来、間違った信仰をしていた生みの親に対し、憐れみが何処かしらにあったのでしょう。そして信仰を学んでいく中でその想いは大きくなっていき、いよいよ自分の死が目前となった時、おん教を捨てるという表現として表れてきたのです。これは言わば外側から与えられた解答などではなく、自分の内側から出てきた小さな問題意識が童女の中で時間をかけて育まれ、新たな、別の信仰めいたものとして出てきたのでしょう。著者がおぎんの眼を、「「流人となれるえわの子供」、あらゆる人間の心」と表現したのもその為です。
そして孫七もおぎんの眼を見た時、自然と自分の信仰とおぎんの信仰を比較し、おぎんの信仰の強さを眼から感じ取り、いんへるのへ向かう決意を固めていったのでした。
信仰とは、ただ教えを守ることだけではなく、自分がそれまで向き合ってきた問題に対し答えを出し、それに忠実に従う事も指すのです。
2015年8月8日土曜日
2015年3月1日日曜日
橇ー黒島伝治(未完成)
日露戦争時、日本軍は雪が降るシベリアの地を攻略するため、地元の馭者達を利用しました。日本人は彼らに、少し荷物を運ぶだけだからと嘘をついて、自分たちと共に戦地へと赴かせたのです。こうした依頼には、馭者の1人である「イワン」も警戒はしたものの、結局はお金と彼らの話術によって騙されてしまいました。
一方日本軍側では、兵卒である「吉原」は、大隊長や戦争について、いくらか疑問を感じていました。彼は大隊長のお世話をする、従卒をした経験から、将校が食べる食事と兵卒のそれとには大きな違いがあることを知っていたのです。また吉原は自分の容姿が大隊長の眼鏡に適ったことから、従卒に抜擢されたことも知っており、将校達にこれほどの権限が本当にあるのかと考えるようになっていったのでした。
また、家畜を徴発されたシベリアの農家の人々や戦争に巻き込まれて死ななければならなかったシベリアの人々に同情し、一体何の為の戦争なのかを考えずにはいられなくなっていきます。
そしてそんな馭者と日本軍は、いよいよロシア軍と交戦します。激しい戦闘が一時間ほど続いた後、日本軍は勝利しました。
しかし、吉原は戦争に巻き込まれて無残にも自軍によって殺されてしまった子父を見て、
「戦争をやっとるのは俺等だよ。」
と言って、他の兵卒と共に戦争を放棄しようとします。
しかしそれを知った大隊長は、吉原が拍車を錆びさせたこと、自身が大佐の娘に熱中していることを言いふらしたこと等の私怨から、「不軍記な!何て不軍記な!」と言って、彼を痛めつけます。
一方それを見ていたイワンは、戦慄し、日本軍に騙され憤慨している他の馭者たちと共にその場を去ってしまいます。取り残された大隊長はそれを部下の不注意のせいにしました。ところが、兵卒は兵卒で、捨て駒として彼らをシベリアに寄越した者の手先となって、彼らを酷使した大隊長に自然と銃剣を誰もが突きつけたのです。
一方日本軍側では、兵卒である「吉原」は、大隊長や戦争について、いくらか疑問を感じていました。彼は大隊長のお世話をする、従卒をした経験から、将校が食べる食事と兵卒のそれとには大きな違いがあることを知っていたのです。また吉原は自分の容姿が大隊長の眼鏡に適ったことから、従卒に抜擢されたことも知っており、将校達にこれほどの権限が本当にあるのかと考えるようになっていったのでした。
また、家畜を徴発されたシベリアの農家の人々や戦争に巻き込まれて死ななければならなかったシベリアの人々に同情し、一体何の為の戦争なのかを考えずにはいられなくなっていきます。
そしてそんな馭者と日本軍は、いよいよロシア軍と交戦します。激しい戦闘が一時間ほど続いた後、日本軍は勝利しました。
しかし、吉原は戦争に巻き込まれて無残にも自軍によって殺されてしまった子父を見て、
「戦争をやっとるのは俺等だよ。」
と言って、他の兵卒と共に戦争を放棄しようとします。
しかしそれを知った大隊長は、吉原が拍車を錆びさせたこと、自身が大佐の娘に熱中していることを言いふらしたこと等の私怨から、「不軍記な!何て不軍記な!」と言って、彼を痛めつけます。
一方それを見ていたイワンは、戦慄し、日本軍に騙され憤慨している他の馭者たちと共にその場を去ってしまいます。取り残された大隊長はそれを部下の不注意のせいにしました。ところが、兵卒は兵卒で、捨て駒として彼らをシベリアに寄越した者の手先となって、彼らを酷使した大隊長に自然と銃剣を誰もが突きつけたのです。
2015年2月26日木曜日
山男の四月ー宮沢賢治(修正版4)
ある時、山男は獲物である山鳥を捕らえたことに気を良くして、それを振り回しながら森を出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝に獲物を投げ出して、寝っ転がります。すると彼は自分でも気づかぬうちに夢の中へと旅立ってしまいました。
夢の中で彼は木樵に化けて、町へと下りていたのです。そしてそこで山男は「陳」という、薬売りと出会います。彼は陳を警戒して、「薬はよろしい。」というのですが、その声があまりにも大きかった為に、周りからの注目を集めてしまいました。それに気づいた山男は、慌てて「六神丸」と呼ばれる奇妙な薬を呑むことになったのです。
すると薬を呑んだ彼は、みるみる身体が小さくなり、陳の薬箱に閉じ込められてしまいます。「しまった」と思うも後の祭り。山男はどうにかして、その理解し難い状況を飲み込もうとします。その時、なんと薬箱の中の何者かが山男に、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてくるではありませんか。彼は「おれは魚屋の前から来た。」と腹に力を入れていいました。
しかしその声があまりにも大きかった為に、陳に怒鳴られてしまいます。しかしこれに気を悪くした山男は、もう一度大きな声で怒鳴り返しました。すると陳は、彼が叫ぶと町の者に彼の正体がばれてしまい、生活ができなくなってしまうと嘆き始めます。これに同情した山男は、陳にもう叫ばないことを約束します。
そうしてその場が落ち着くと、山男は再び、自分に声をかけた人物を探し始めます。それは矢張り、山男と同じように、陳に騙されて六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人曰く、山男は六神丸を呑んでまだ時間が経っていないので、薬箱の中にある黒い丸薬を呑めば元の姿に戻るというのです。そして自分たちも、水に浸かった後に丸薬を呑めばもとに戻るといいます。
そこで山男は、タイミングを見計らい、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。ところが、黒い丸薬を呑んでもとの姿に戻ったはいいものの、陳も丸薬を呑んで大きくなり、山男を捕らえようとします。
やがて山男が捕まり、「助けて」と叫んでいるところで夢から覚めます。現実に戻ってきた彼は、投げ出された山鳥や陳や六神丸の事を考えるものの、ただ
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言うばかりだったのです。
この作品では、〈獲物の気持ちを理解したにも拘らず、捕食者としての生活を優先せざるを得なかった、山男の姿〉が描かれています。
上記の「一般性」を考えるにあたり、もう一度物語を、山男の「獲物」に対する捉え方の変化を見ていきながら整理してみましょう。
夢の中で陳に捕まるまでは、山男にとって「獲物」はただの食べ物に過ぎません。また枯れ芝に山鳥を投げ出す描写から察するに、彼は山鳥に自分と同じ精神が宿っている、という事すら認めてはいなかったでしょう。
ところが陳に捕まり閉じ込められてしまったことによって、彼の内面に変化が生じます。それまで捕食者であった山男は、陳に捕まったことで獲物となり、どうにかその信じ得ない状況を理性的に理解しようとします。ですがなかなかそれを受け止められない彼は、陳に怒鳴られると怒りのあまり、怒鳴り返してしまう始末。そして陳もこうした山男の態度に困り果ててしまい、つい泣き言を漏らしてしまいます。
ここでも再び山男の内面に変化が生じます。それまで獲物として捕まってしまった事に腹を立てていた彼が、なんと陳に同情しはじめたのです。恐らく、嘗ては陳と同じく捕食者の身であった山男は、捕食者の立場から陳を理解したのでしょう。そして捕食者の立場から獲物の役割を理解し、静かにすることを約束したのです。
ですが、いざ黒い丸薬を呑んで元の姿に戻れることを知った山男は、一体どうしたでしょうか。迷うことなく黒い丸薬を呑んで、陳のもとから逃げようとしました。幾ら陳の気持ちが理解し、獲物の立場を分かろうとも、矢張り食べられたくないものは食べられたくありません。そしてその挙句、陳に捕まり生命の危機を極限のところで感じた刹那、夢から醒めてしまいます。
こうして山男は、生きたくても生きられず、ただ大人しくしておくか、最後まで藻掻くかしか出来ない獲物の気持ちを知っていったのです。
ところがここで大きな問題が残ります。それは獲物の気持ちを垣間見た儘に、現実の捕食者としての立場に戻ってきたことに他なりません。捕食者として生き抜く上で、それを知ることは弊害以外の何物でもないのです。たった一瞬の躊躇が獲物を逃し、狩りに支障をきたすとも限らないのですから。よって彼は、
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
などと言って、自身の生活のために、獲物の気持ちをなかったことにするしかありませんでした。
一方の都合を知ることは、もう一方の都合を果たす上では、障害にしかならないことだってあり得るのです。
夢の中で彼は木樵に化けて、町へと下りていたのです。そしてそこで山男は「陳」という、薬売りと出会います。彼は陳を警戒して、「薬はよろしい。」というのですが、その声があまりにも大きかった為に、周りからの注目を集めてしまいました。それに気づいた山男は、慌てて「六神丸」と呼ばれる奇妙な薬を呑むことになったのです。
すると薬を呑んだ彼は、みるみる身体が小さくなり、陳の薬箱に閉じ込められてしまいます。「しまった」と思うも後の祭り。山男はどうにかして、その理解し難い状況を飲み込もうとします。その時、なんと薬箱の中の何者かが山男に、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてくるではありませんか。彼は「おれは魚屋の前から来た。」と腹に力を入れていいました。
しかしその声があまりにも大きかった為に、陳に怒鳴られてしまいます。しかしこれに気を悪くした山男は、もう一度大きな声で怒鳴り返しました。すると陳は、彼が叫ぶと町の者に彼の正体がばれてしまい、生活ができなくなってしまうと嘆き始めます。これに同情した山男は、陳にもう叫ばないことを約束します。
そうしてその場が落ち着くと、山男は再び、自分に声をかけた人物を探し始めます。それは矢張り、山男と同じように、陳に騙されて六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人曰く、山男は六神丸を呑んでまだ時間が経っていないので、薬箱の中にある黒い丸薬を呑めば元の姿に戻るというのです。そして自分たちも、水に浸かった後に丸薬を呑めばもとに戻るといいます。
そこで山男は、タイミングを見計らい、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。ところが、黒い丸薬を呑んでもとの姿に戻ったはいいものの、陳も丸薬を呑んで大きくなり、山男を捕らえようとします。
やがて山男が捕まり、「助けて」と叫んでいるところで夢から覚めます。現実に戻ってきた彼は、投げ出された山鳥や陳や六神丸の事を考えるものの、ただ
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
と言うばかりだったのです。
この作品では、〈獲物の気持ちを理解したにも拘らず、捕食者としての生活を優先せざるを得なかった、山男の姿〉が描かれています。
上記の「一般性」を考えるにあたり、もう一度物語を、山男の「獲物」に対する捉え方の変化を見ていきながら整理してみましょう。
夢の中で陳に捕まるまでは、山男にとって「獲物」はただの食べ物に過ぎません。また枯れ芝に山鳥を投げ出す描写から察するに、彼は山鳥に自分と同じ精神が宿っている、という事すら認めてはいなかったでしょう。
ところが陳に捕まり閉じ込められてしまったことによって、彼の内面に変化が生じます。それまで捕食者であった山男は、陳に捕まったことで獲物となり、どうにかその信じ得ない状況を理性的に理解しようとします。ですがなかなかそれを受け止められない彼は、陳に怒鳴られると怒りのあまり、怒鳴り返してしまう始末。そして陳もこうした山男の態度に困り果ててしまい、つい泣き言を漏らしてしまいます。
ここでも再び山男の内面に変化が生じます。それまで獲物として捕まってしまった事に腹を立てていた彼が、なんと陳に同情しはじめたのです。恐らく、嘗ては陳と同じく捕食者の身であった山男は、捕食者の立場から陳を理解したのでしょう。そして捕食者の立場から獲物の役割を理解し、静かにすることを約束したのです。
ですが、いざ黒い丸薬を呑んで元の姿に戻れることを知った山男は、一体どうしたでしょうか。迷うことなく黒い丸薬を呑んで、陳のもとから逃げようとしました。幾ら陳の気持ちが理解し、獲物の立場を分かろうとも、矢張り食べられたくないものは食べられたくありません。そしてその挙句、陳に捕まり生命の危機を極限のところで感じた刹那、夢から醒めてしまいます。
こうして山男は、生きたくても生きられず、ただ大人しくしておくか、最後まで藻掻くかしか出来ない獲物の気持ちを知っていったのです。
ところがここで大きな問題が残ります。それは獲物の気持ちを垣間見た儘に、現実の捕食者としての立場に戻ってきたことに他なりません。捕食者として生き抜く上で、それを知ることは弊害以外の何物でもないのです。たった一瞬の躊躇が獲物を逃し、狩りに支障をきたすとも限らないのですから。よって彼は、
「ええ、畜生、夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」
などと言って、自身の生活のために、獲物の気持ちをなかったことにするしかありませんでした。
一方の都合を知ることは、もう一方の都合を果たす上では、障害にしかならないことだってあり得るのです。
2015年2月23日月曜日
唖娘スバーーラビンドラナート・タゴール(宮本百合子訳)(修正版)
「スバー」はバニカンタの、3人娘の末の子としてこの世に生を受けましたが、生まれながらに唖でした。その為に、人々からはまるで感情がないように扱われ、母からは自身の不具のように忌み嫌われて育ってきたのです。その変わりにスバーは美しい容姿と感情豊かな心を持ち合わせていました。が、感情が豊かな故に、そうした人々や母の仕打ちに日々深く傷つけられていきます。
そんな彼女にも幾らかの友人がいました。2頭の牝牛とプラタプという青年です。彼は怠け者(と言っても、インドの怠け者は日本のそれとは違い、仕事が休みの家に行き、客として相手を楽しませるという、職業的な側面も持ち合わせています。)で魚を捕る事が好きで、スバーはそれをいつも見守っていました。またプラタプにとっても、彼女の存在はそこにいるだけで彼の大きな手助けとなっていたのです。
しかしそんなスバーも、時が経ちお嫁に行かなければいけない歳になってしまいます。両親は世間体から、この不具の娘をどうにかして嫁がせようと躍起になりました。そうして彼女はカルカッタの家へ嫁ぐこととなったのです。ですがスバーはお嫁に行きたいとはちっとも思っておらず、ただ嘆くばかりでした。そしてあれ程仲のよかったプラタプすらも、「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」と、スバーの心を分からず別れを告げてしまいます。
ところが、そうして嫁いだ先にも、結局は彼女が唖だと分かると追いだして、花婿は再び、今度は口の利ける花嫁を貰うことにしたのでした。
この作品では、〈言葉にならない言葉、声にならない声が、この世には「確か」に存在する〉ということが描かれています。
私たちはどうして人の気持ちを読み違えたり、それを疑ったりするのでしょうか。それは「気持ち」というものが、物理的な形で存在しないからに他なりません。そしてそれだけに、言葉を話せない人々の「気持ち」というものはますます希薄になってしまいます。
この作品に登場するスバーも、唖故に、「気持ち」という目には見えないものの存在を周りから認められなかった者の1人です。ですが彼女は本当に言葉を持ちあわせていなかったのではなく、寧ろあり余るほどの感性を持った少女だったのでした。
ですが、この物語の悲劇というものは、それなのにスバーの気持ちを理解した者が1人もいなかったというところにあります。母も父も花婿も、一緒に釣りをした仲であったプラタプですらも、彼女の気持ちに気付かず、快く彼女を見送ってしまいます。
しかしそれを知り得る唯一の人物が世界の何処かにいるとすれば、それはこの作品を読んだ私たちに他なりません。無論、だからと言って、物語のスバーに直接何かしてあげる事は出来ないのです。ですが、こうした「言葉にならない言葉、声にならない声」の存在に耳を傾ける事が出来ます。ましてや日本人たる私たちは、他の国々の人々よりもそうした事にただでさえ敏感でなければなりません。夫が妻に「愛してる」と生涯言わなかったからと言って、妻の事を果たして想ってはいなかったのでしょうか。息子が親に「有難う」と言わなかったからと言って、年老いていく親の身を案じていないことになるのでしょうか。
文学というものは、人々の心の特殊的なあり方や内面の変化を文章によって表しています。そしてそうして綴られた言葉のひとつひとつが、理解され難い人々の気持ちを理解する、大きな手立てとなってゆかねばなりません。
ですからスバーの存在を物語によって描くということは、そうした知られなかった彼女の悲しみを人々に知らしめる事でもあり、そしてそれは作家にとっての大きな使命でもあるのです。
そんな彼女にも幾らかの友人がいました。2頭の牝牛とプラタプという青年です。彼は怠け者(と言っても、インドの怠け者は日本のそれとは違い、仕事が休みの家に行き、客として相手を楽しませるという、職業的な側面も持ち合わせています。)で魚を捕る事が好きで、スバーはそれをいつも見守っていました。またプラタプにとっても、彼女の存在はそこにいるだけで彼の大きな手助けとなっていたのです。
しかしそんなスバーも、時が経ちお嫁に行かなければいけない歳になってしまいます。両親は世間体から、この不具の娘をどうにかして嫁がせようと躍起になりました。そうして彼女はカルカッタの家へ嫁ぐこととなったのです。ですがスバーはお嫁に行きたいとはちっとも思っておらず、ただ嘆くばかりでした。そしてあれ程仲のよかったプラタプすらも、「それじゃあ、ス、お父さん達は到頭お婿さんを見つけて、お前はお嫁に行くのだね、私のことも、まるきり忘れて仕舞わないようにしてお呉れ!」と、スバーの心を分からず別れを告げてしまいます。
ところが、そうして嫁いだ先にも、結局は彼女が唖だと分かると追いだして、花婿は再び、今度は口の利ける花嫁を貰うことにしたのでした。
この作品では、〈言葉にならない言葉、声にならない声が、この世には「確か」に存在する〉ということが描かれています。
私たちはどうして人の気持ちを読み違えたり、それを疑ったりするのでしょうか。それは「気持ち」というものが、物理的な形で存在しないからに他なりません。そしてそれだけに、言葉を話せない人々の「気持ち」というものはますます希薄になってしまいます。
この作品に登場するスバーも、唖故に、「気持ち」という目には見えないものの存在を周りから認められなかった者の1人です。ですが彼女は本当に言葉を持ちあわせていなかったのではなく、寧ろあり余るほどの感性を持った少女だったのでした。
ですが、この物語の悲劇というものは、それなのにスバーの気持ちを理解した者が1人もいなかったというところにあります。母も父も花婿も、一緒に釣りをした仲であったプラタプですらも、彼女の気持ちに気付かず、快く彼女を見送ってしまいます。
しかしそれを知り得る唯一の人物が世界の何処かにいるとすれば、それはこの作品を読んだ私たちに他なりません。無論、だからと言って、物語のスバーに直接何かしてあげる事は出来ないのです。ですが、こうした「言葉にならない言葉、声にならない声」の存在に耳を傾ける事が出来ます。ましてや日本人たる私たちは、他の国々の人々よりもそうした事にただでさえ敏感でなければなりません。夫が妻に「愛してる」と生涯言わなかったからと言って、妻の事を果たして想ってはいなかったのでしょうか。息子が親に「有難う」と言わなかったからと言って、年老いていく親の身を案じていないことになるのでしょうか。
文学というものは、人々の心の特殊的なあり方や内面の変化を文章によって表しています。そしてそうして綴られた言葉のひとつひとつが、理解され難い人々の気持ちを理解する、大きな手立てとなってゆかねばなりません。
ですからスバーの存在を物語によって描くということは、そうした知られなかった彼女の悲しみを人々に知らしめる事でもあり、そしてそれは作家にとっての大きな使命でもあるのです。
山男の四月ー宮沢賢治(修正版3)
ある時、山男は山鳥を捕らえた事に気を良くして、ぐったり首を垂れた獲物をぶらぶら振り回して森から出ていきました。そして日当たりのいい枯れ芝まで出てくると、獲物を投げ出してごろりと寝っ転がり、雲を眺めはじめます。すると、なんだか彼の足と頭は急に軽くなり、いつの間にか木こりの姿に化けて、町へ出かけていました。
町へと来た彼は、そこで「陳」という薬売りに出会い、「六神丸」と呼ばれる薬を売りつけられます。山男も彼を怪しいとは思い、「よろしい」と大きな声でいいました。ところがその声があまりにも大きかったので人々の衆目を浴びてしまいます。慌てて山男は六神丸を買うことにしました。ですが、陳は買わずともただ呑んでくれさえすれば良いというのです。そこで山男は薬を呑んでしまうのですが、それを呑んだ途端、彼の身体はみるみる小さくなっていきました。そうして小さくなった彼は、陳に捕まり、薬箱の中へ入れられてしまったのです。
「やられた畜生」と思うも後の祭り。彼は誰かに売られて誰かの口に入るのを待つばかりなのですから。ですから山男はどうにかして、その信じられない事実を受け止めようとします。そんな事を彼が考えていると、何者かが、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてきました。山男は「俺は魚屋の前から来た。」と応えます。
すると陳は「声あまり高い。」と言って注意しました。しかしこれに気を悪くした山男は、再び大きな声で陳を怒鳴ります。すると陳は暫く黙った後に、そんなに騒がれると商売が成り立たず、生活できなくなってしまうと嘆きました。この姿に山男は同情し、彼にもう騒がない事を約束します。
そして陳が歩き出したらしい事を確認すると、彼は再び声の主を探しはじめます。声の主は矢張り六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人は薬箱にある黒い丸薬を呑めば、元の姿に戻れる事を山男に教えました。支那人達は既に身体まで六神丸になっているので呑むことは出来ませんが、山男はまだ時間が経っていないために、元に戻れるというのです。
そこで彼は、タイミングを見計らって黒い丸薬を呑んで元の姿に戻り、陳から逃げようとしました。ところが陳も丸薬を呑んで今までの倍の大きさになって、山男を掴んでしまいます。
「助けてくれ」と山男は叫びますと、夢はそこで終わりました。夢から覚めた彼は、六神丸や陳のことを考えたり、投げ出してある山鳥の羽を見たりした後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言うのです。
この作品では、〈獲物の気持ちを理解したが故に、捕食者の都合を優先してそれを忘れなければならなかった、山男の姿〉が描かれています。
上記の一般性を論証するために、もう一度、物語のはじめに立ち返り、山男の心情に深く分け入って、「獲物」という存在がどのように変化していったのかを見ていきましょう。
夢を見る以前、山男にとっては「獲物」は獲物で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
問題は六神丸を陳に呑まされたところからです。山男は自分が「獲物」として他の者に捉えられてしまったという、これまでにない、信じられない事実を理性的に受け止めようと努力します。しかしそれはなかなか受け止められず、捕食者である陳に抵抗しました。
ところが陳が山男が騒いで、危うく他の人々に正体がばれそうになり泣き言を述べはじめると、山男の態度も変化をみせます。嘗て捕まるまでは自分も捕食者の身であった為に、捕食者たる陳に同情を寄せたのです。そして彼は、捕食者の立場から客観的に獲物の立場をわきまえ、大人しく捉えられている事を約束します。それが捕食者から見た時の、獲物の正しいあり方なのですから。
ですが六神丸になった支那人の話を聞いて、彼の心は再び大きく揺れていきます。一度は助からない以上、陳の言うことを聞こうと考えた山男ですが、本心は矢張り助かりたいのです。山男はそのタイミングを見計らうために、獲物としての役割を果たす一方で、その時を窺います。そして他の人に自分と同じように、六神丸を呑ませようとした時、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。
ところが驚いた陳も、何かしらの丸薬を呑んで、倍以上の大きさになって彼を再び捕らえます。そうなると山男にとって、「獲物」の立場など忘れ、兎に角逃げたくて逃げたくて仕方がなくなっていきました。そして遂には理性を捨て去り、「助けてくれ」と叫ぶのです。
こうして彼は、逃げられるものなら逃げたいが、そうすることも出来ず藻掻く、或いは大人しくしている「獲物」の気持ちを知ったのでした。
ところが、ここで大きなひとつの問題が残ります。元来彼は捕食者で、それまでの体験は夢だったのでした。そうなると山男にとってはそうした気持ちなど、捕食を行う上では弊害以外の何物でもありません。そうした躊躇が、「獲物」を逃す事にだって繋がってしまうのですから。だからこそ彼は、再び自分の立場を確認した後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言って、夢の体験そのものを忘れることにしたのでした。
一方の都合を知ることは、もう一方の都合を考えると邪魔になる場合だってあるのです。
町へと来た彼は、そこで「陳」という薬売りに出会い、「六神丸」と呼ばれる薬を売りつけられます。山男も彼を怪しいとは思い、「よろしい」と大きな声でいいました。ところがその声があまりにも大きかったので人々の衆目を浴びてしまいます。慌てて山男は六神丸を買うことにしました。ですが、陳は買わずともただ呑んでくれさえすれば良いというのです。そこで山男は薬を呑んでしまうのですが、それを呑んだ途端、彼の身体はみるみる小さくなっていきました。そうして小さくなった彼は、陳に捕まり、薬箱の中へ入れられてしまったのです。
「やられた畜生」と思うも後の祭り。彼は誰かに売られて誰かの口に入るのを待つばかりなのですから。ですから山男はどうにかして、その信じられない事実を受け止めようとします。そんな事を彼が考えていると、何者かが、「おまえさんはどこから来なすったね。」と尋ねてきました。山男は「俺は魚屋の前から来た。」と応えます。
すると陳は「声あまり高い。」と言って注意しました。しかしこれに気を悪くした山男は、再び大きな声で陳を怒鳴ります。すると陳は暫く黙った後に、そんなに騒がれると商売が成り立たず、生活できなくなってしまうと嘆きました。この姿に山男は同情し、彼にもう騒がない事を約束します。
そして陳が歩き出したらしい事を確認すると、彼は再び声の主を探しはじめます。声の主は矢張り六神丸を呑まされた、支那人でした。支那人は薬箱にある黒い丸薬を呑めば、元の姿に戻れる事を山男に教えました。支那人達は既に身体まで六神丸になっているので呑むことは出来ませんが、山男はまだ時間が経っていないために、元に戻れるというのです。
そこで彼は、タイミングを見計らって黒い丸薬を呑んで元の姿に戻り、陳から逃げようとしました。ところが陳も丸薬を呑んで今までの倍の大きさになって、山男を掴んでしまいます。
「助けてくれ」と山男は叫びますと、夢はそこで終わりました。夢から覚めた彼は、六神丸や陳のことを考えたり、投げ出してある山鳥の羽を見たりした後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言うのです。
この作品では、〈獲物の気持ちを理解したが故に、捕食者の都合を優先してそれを忘れなければならなかった、山男の姿〉が描かれています。
上記の一般性を論証するために、もう一度、物語のはじめに立ち返り、山男の心情に深く分け入って、「獲物」という存在がどのように変化していったのかを見ていきましょう。
夢を見る以前、山男にとっては「獲物」は獲物で、それ以上でもそれ以下でもありませんでした。
問題は六神丸を陳に呑まされたところからです。山男は自分が「獲物」として他の者に捉えられてしまったという、これまでにない、信じられない事実を理性的に受け止めようと努力します。しかしそれはなかなか受け止められず、捕食者である陳に抵抗しました。
ところが陳が山男が騒いで、危うく他の人々に正体がばれそうになり泣き言を述べはじめると、山男の態度も変化をみせます。嘗て捕まるまでは自分も捕食者の身であった為に、捕食者たる陳に同情を寄せたのです。そして彼は、捕食者の立場から客観的に獲物の立場をわきまえ、大人しく捉えられている事を約束します。それが捕食者から見た時の、獲物の正しいあり方なのですから。
ですが六神丸になった支那人の話を聞いて、彼の心は再び大きく揺れていきます。一度は助からない以上、陳の言うことを聞こうと考えた山男ですが、本心は矢張り助かりたいのです。山男はそのタイミングを見計らうために、獲物としての役割を果たす一方で、その時を窺います。そして他の人に自分と同じように、六神丸を呑ませようとした時、黒い丸薬を呑んで脱出を試みました。
ところが驚いた陳も、何かしらの丸薬を呑んで、倍以上の大きさになって彼を再び捕らえます。そうなると山男にとって、「獲物」の立場など忘れ、兎に角逃げたくて逃げたくて仕方がなくなっていきました。そして遂には理性を捨て去り、「助けてくれ」と叫ぶのです。
こうして彼は、逃げられるものなら逃げたいが、そうすることも出来ず藻掻く、或いは大人しくしている「獲物」の気持ちを知ったのでした。
ところが、ここで大きなひとつの問題が残ります。元来彼は捕食者で、それまでの体験は夢だったのでした。そうなると山男にとってはそうした気持ちなど、捕食を行う上では弊害以外の何物でもありません。そうした躊躇が、「獲物」を逃す事にだって繋がってしまうのですから。だからこそ彼は、再び自分の立場を確認した後、「ええ、畜生、夢のなかのこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」と言って、夢の体験そのものを忘れることにしたのでした。
一方の都合を知ることは、もう一方の都合を考えると邪魔になる場合だってあるのです。
2015年2月17日火曜日
未亡人ー豊島与志雄(修正版4)
この作品は差出人不明の、「守山未亡人千賀子さん」宛の3通の手紙から成り立っています。
1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。
2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。
3通目では、その翌日の事が綴られています。
その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。
一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。
この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。
上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。
1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)
すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。
1通目においては、差出人と千賀子についてと、選挙への出馬の事が綴られていました。
千賀子はどうやら差出人を見ると、「擽ったいような表情」をされて、差出人は戸惑うことがあるというのです。しかし千賀子自身は差出人への身の振り方を考えなければ、その存在が千賀子を破滅される恐れがあるといいます。
また彼女はその時、猫のように居眠りをしたり猫を擽ったりしながら、秋山という人物から50万円という大金が届く知らせを待っていました。その大金を政治資金にして、千賀子は出馬を考えていたのです。そしてその姿は、差出人から見れば幾らか醜いものに見えていたようでした。
2通目では、息子の友人である「高木」が家に遊びに来た時の事が綴られています。
出馬を考えはじめた千賀子は、次にこの「高木」という人物に政治の勉強をさせて、自身の政治活動に役立てようとしたのです。ですが高木は彼女に恋慕していた為に、政治に利用されようとしている事が見抜けません。
更に高木よりも15も年上の千賀子は、恐らく以前から高木の気持ちを知っており、政界への前途が開けた事に気を良くして、彼で遊んでみようと考えはじめたのです。彼女は「肩がこった」と言って服をずらし艶かしい素肌を露にして、彼に肩を揉ませてみました。そうして彼女は彼の純粋無垢な反応を楽しんだのです。
差出人はこれにも矢張り呆れていました。ですが息子が帰ってきて政治の話をしたのですが、沈黙の合間に「冷たい微風に似た静寂」を感じた事については幾分か評価しています。
3通目では、その翌日の事が綴られています。
その前夜で家の者達に選挙への出馬を表明した千賀子は、手始めに夫への墓参りを決意していきました。これは差出人も意外だったと述べています。そしてその彼女の墓参りの姿を、差出人は高く評価したのです。曰く、彼女は「白痴」のように何も考える事を持ちあわせておらず、未亡人のようないやらしさがなくなり、1個の女になっていたというのです。
やがて墓参りを終えた千賀子は、活動活動の日々に追われる事となり、「瞳を複雑に濁らせていく」のでした。
一体差出人は何物なのでしょうか。一体千賀子のどういったところを具体的に非難しているのでしょうか。
この作品では、〈野望も希望もない未亡人が政治に出馬し暇つぶしをする様に、自分自身に呆れられる様子〉が描かれています。
上記の問題に答えるにあたり、物語をもう一度、差出人と宛先人の、各場面での心情を整理してみましょう。
1通目において、宛先人は差出人を見ると擽ったい表情をしますが、その差出人が彼女を殺すことだって有り得る、という風な事が書かれてあります。それは決して差出人が直接手を下すというような事ではないでしょう。差出人は、自分の存在そのものが彼女を破滅へと追いやるかもしれないと考えているようです。
では差出人とは一体何者で、宛先人にとってどのような存在なのでしょうか。思えば、差出人はあたかも宛先人の傍をピッタリと張り付いているかのようにその行動を把握しており、また行動どころか、その心情すらも、「他人であるならば」憶測で物語るしかないところすらも断言し綴っています。ですから、こうした心情すらも断言して述べているあたり、他人ではなく本人、と考えるのが自然と言うものです。
つまり差出人と宛先人は、同一人物でありながらも、対立した、それぞれ別の人格であると言えるのではないでしょうか。(因みに作中では、「ーーいいえ、それはきまっていました。」「ーーわたしは人間ですもの。」というように、手紙であるにも拘わらず宛先人の台詞らしきものが書かれてありましたが、2者が同一人物ということになると、これにも説明がつきます。)
すると、同一人物で差出人たる彼女が、一体何故、その存在が身を滅ぼすことになるかもしれないと考えているのでしょう。それは差出人が宛先人の何を非難しているのかについて理解できれば、おのずと見えてきます。
彼女は宛先人が猫を擽ったり昼寝をしていた時、選挙の出馬を決めた時、高木を弄んだ時に、厳しく自分を非難していました。何故ならそれらは全て、彼女の本音や本当にしたいことではなく、ただの暇つぶしに過ぎなかったからに他なりません。猫を擽りながら昼寝をしていた時は、その裏で50万という大金を待っていましたし、選挙への出馬を決めた理由についても、なんとなく神々しくその将来に惹かれていったからに過ぎないのです。(「本文中には、「厚生参与官という言葉は、あなたにとっては、何等の内容もない架空のもので、またそれだけに一層光栄あるものと見えたでしょう。」と書かれています。)そして高木に関しても、本当に高木の事を想っていたのであれば良かったものの、そうではないどころか、寧ろそれを弄ぼうとしたところに差出人は愚劣さを感じずにはいられませんでした。
こうした事を非難しているところから察するに、おそらく宛先人たる千賀子というものは、彼女の本音、或いは暇つぶしをする前の彼女と言うべき存在なのでしょう。ですから彼女は、息子と政治の話をしている最中に無意味な空論にふと寂しさを感じたこと、墓参りの際に何も祈ることがなかったことに対し、ほんらいの自分と向き合ったと見なし、評価したのです。
しかし、墓参りを終えた後、再び宛先人千賀子は活動という暇つぶしに明け暮れる事となり、差出人たる彼女はより一層自分の首を絞める事となるでしょう。
つまり自分で自分の身を滅ぼすとは、人生において暇つぶしや嘘をついている彼女が、別の人格の自分によって攻撃されて、自らによって息の根をとめられるという事だったのです。
しかしここまで読み進めてみると、ひとつの人物から違った2つの人格が生まれて、自分を養護したり攻撃したりする、というのは何か奇妙なことのように思われる事でしょう。ですが、私たちにもこうした出来事はあるはずです。
例えば意中の女性の気を引きたいが為に、彼女の気に入りそうな言葉を並べ立てる一方で、「僕ってこんな人間だっけ?」、「かえってこの人に失礼なことをしているのではないか」という思いをしたことは誰にでもある経験ではないでしょうか。
そして物語に登場する守山千賀子も同じです。未亡人で夫がおらず退屈し、世間から憐れみの目で見られ、ある側面からは優遇されているようなところもあり、これを面白がって政治活動したい気持ちに彼女は駆られていきます。しかしその一方で、ほんらいあったはずの彼女がこれを許さず、自分からは離れすぎた行動であるとして戒めようとしているのです。
そしてこの両者の思いというものは、彼女の中で拮抗しており、絶妙な力関係を維持しながら長い間ひとつの精神に宿っていたのでしょう。やがてある時点からは、それがあたかも独立した、別の人格であるかのように両者は独立し、一方が手紙を宛てて自分を強く戒めようという考えに至ったのです。
まさに千賀子の悲劇は未亡人になったことそのものであり、それが自分で自分の首を絞めるきっかけとなっていったのでした。
2015年2月14日土曜日
短命長命ー黒島伝治
著者は自分の故郷たる小豆島にある、「生田春月」の詩碑に、ふと行ってみたくなりました。
彼は自身の道の先人たる春月や「芥川龍之介」らの存在を大きく思う一方で、現在の自分の年よりよりも低い年齢で、自らこの世を去ったことに対し、奇妙な感覚を覚えます。
彼の見解では、作家に問わず、あらゆるジャンルにおいて短い期間で完成していく者、また長い期間をかけて熟成し出来上がっていく者がいるのではないかと考えているのです。そして春月らのような、短期間で完成した者達にとって、自ら命を絶つ事には何かしらの意義があるのではないかとも考えています。
しかしその一方で、著者の知り合いと思われる女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という見解にも共感しているのです。一体彼は、何故相反する2つの意見に耳を傾けているのでしょうか。
この作品では、〈先人の自殺を作家としては尊敬しながらも、人間としては尊敬できない、著者の素朴な感性〉が描かれています。
生田春月や芥川龍之介らの事の年齢を通過していながらも、彼らの存在を大きく感じているところから察するに、恐らく著者は、彼らの自殺は、作家として自分が未だ嘗て体験したことのない感覚、境地に至った故のことと考えているのでしょう。ですからその死は、後世の作家にとって、何か意義があることのように捉えるべきだと考えているのでしょう。ですから彼らの死自体においても、作家としては、肯定的です。
ところが人間としてはどうでしょうか。それは否です。ここで断っておきたいのですが、残念ながら死に関して、このエッセイでは市井を生きるものとして、どのように捉えるかは明言されておらず、またお恥ずかしい話ですが、私自身にもこれを論じられる実力がありません。ただ著者が女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という意見に賛同を覚えたのは確かです。ですから彼は市井を生きる者として、女のこの素朴な感性にこそ共感を覚えたのではないかと考えています。
どうやら作家という限られた職業の中では、先人の死が尊く思われるからと言って、1個の人間としてそのあり方が正しいのか否かは別の問題のようです。
彼は自身の道の先人たる春月や「芥川龍之介」らの存在を大きく思う一方で、現在の自分の年よりよりも低い年齢で、自らこの世を去ったことに対し、奇妙な感覚を覚えます。
彼の見解では、作家に問わず、あらゆるジャンルにおいて短い期間で完成していく者、また長い期間をかけて熟成し出来上がっていく者がいるのではないかと考えているのです。そして春月らのような、短期間で完成した者達にとって、自ら命を絶つ事には何かしらの意義があるのではないかとも考えています。
しかしその一方で、著者の知り合いと思われる女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という見解にも共感しているのです。一体彼は、何故相反する2つの意見に耳を傾けているのでしょうか。
この作品では、〈先人の自殺を作家としては尊敬しながらも、人間としては尊敬できない、著者の素朴な感性〉が描かれています。
生田春月や芥川龍之介らの事の年齢を通過していながらも、彼らの存在を大きく感じているところから察するに、恐らく著者は、彼らの自殺は、作家として自分が未だ嘗て体験したことのない感覚、境地に至った故のことと考えているのでしょう。ですからその死は、後世の作家にとって、何か意義があることのように捉えるべきだと考えているのでしょう。ですから彼らの死自体においても、作家としては、肯定的です。
ところが人間としてはどうでしょうか。それは否です。ここで断っておきたいのですが、残念ながら死に関して、このエッセイでは市井を生きるものとして、どのように捉えるかは明言されておらず、またお恥ずかしい話ですが、私自身にもこれを論じられる実力がありません。ただ著者が女の、「この世がいやになるというようなことは、どんなに名のある人だったかは知らぬが、あさはかな人間のすることだ」という意見に賛同を覚えたのは確かです。ですから彼は市井を生きる者として、女のこの素朴な感性にこそ共感を覚えたのではないかと考えています。
どうやら作家という限られた職業の中では、先人の死が尊く思われるからと言って、1個の人間としてそのあり方が正しいのか否かは別の問題のようです。
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