安田家を後にした来島は、次に自分が何をすべきかをよく理解していた。彼はポケットから携帯電話を取り出しどこか繋げた。が、彼はコールボタンを押したかと思うとすぐに赤いボタンを押してさっさとポケットに再びしまった。そして、暫く彼が歩いていると、ポケットの中から、何かが震えるのを感じた。ところが来島はその振動があった事を心のうちで認めると、歩幅を大きくして先を急ぐばかりであった。
彼が向かった先はオフィス街の中心であった。暗闇が支配するこの時刻、昼間の慌ただしさとは打って変わって人気はない。静寂のみがあたりを蠢いている。そして巨大なビルとビルの間に申し訳なさそうに間に挟まれている建物に、来島は吸い込まれるように入っていった。そこが死神の住処であった。そしてその死神が自分の家を開けて最初に目にした人物こそ、彼の数少ない協力者であり、パートナーである鈴木である。
「よう、先に上がってるぜ。」
彼は何やら鍋で何かを煮込んでいるようである。来島はこうした彼の挙動に、呆気に取られながらも平生を保った。
「……ああ、呼んだのは俺だ。」
が、そんな死神に心中を察したのか、鈴木は笑みを浮かべながら付け足した。
「そうカッカするなよ。腹が減っただろう。メシにしようぜ。」
死神はため息をついた後、靴を脱いで奥に入っていった。
彼が着替えを済ませる頃には夕食の準備は済んでいたようである。部屋中にバターと醤油の香ばしい匂いが広がっていた。リビングの中央にはある机には、2つの皿があり、どちらにもよく炒められたシメジとパスタ麺が盛られていた。和風パスタである。
来島はあぐらをかいて座り、目の前の皿を睨んで合掌した。そしてフォークを片手に器用に面をからめ口に運んでいった。が、作法は重んじているものの、何処か食に対する卑しさを感じずにはいられなかった。空腹だったのである。そしてそうした来島の姿を鈴木は楽しむように、自分自身はのんびりと味わっていた。
「旨いか?」
そう聞かれた来島は彼と目と合わせると再び目線をパスタに注ぎ麺を口に詰めた。そして、皿から麺が全て消えていくかいくまいのところで、漸く口を開いた。
「頼みたいことがある。」
思わず鈴木は再び彼の方を見た。彼もこちらを見ている。
「あの男づての仕事か?」
「……。」
「気が進まないね。」
「他に頼むアテもないんだ。」
そう述べる来島は、鈴木から一切目を離さなかった。彼のその事には気づいてはいたが、あえて目を合わせなかった。ただ黙々と食事をとった。
「……やらないとは言ってない。ただ、俺はあの男が好きじゃないだけさ。仕事は仕事、それがプロだ。」
「……。」
来島は何かを噛みしめるように、最後のパスタを口に運びじっくり味を楽しんだ。
「それで来島、俺は何をするんだ?」
「こいつを調べてくれ。」
「安田隆一……癌患者か。」
「ああ、今は奥さんが安田氏の看病しているんだが、その奥さんにそれ以上迷惑をかけたくなくって死にたいらしい。」
「成程。」
鈴木は冷笑まじりにそう答えた。その男から何か、目出度さのようなものを感じずにはいられなかったのである。
「出来るか?」
「任せろ、すぐに基本的な事は分かる。で、殺してやるんだろ?」
「彼が死を処方するに値するならな。」
「はいはい、勝手に言っといてくれ。」
呆れたような口ぶりであった。しかしそのような鈴木の表情を見ても、来島は眉ひとつ動かさなかった。
「……っま、どうせわかっちゃいるんだ。とっととはじめよう。」
そういうと彼は持ってきた茶色いリュックサックから自作のノートパソコンを取り出した。来島にはインターネットにおける情報の知識や電子機器の事は専門外である。しかし鈴木のことはすっかり信頼していたので安心して任せられた。彼は鈴木が着々と準備している間、食器を片付けて珈琲をいれることにした。
「でたぞ。」
そう鈴木が呟いたのは、来島が彼の前に珈琲を出したすぐの事であった。来島はすかさずパソコンのディスプレイに目を近づけた。
「……この会社名、聞いたことあるなぁ。」
「そりゃそうだろう。」
嘲笑気味に鈴木は答えた。一方来島は平生を装おうとしたが、眉が一瞬釣り上がったのは隠しきれなかった。
「大手の建設業会社の名前だぜ。おい、しかも役員やってたのかよ。おっさんやるじゃん。」
「……。」
「一応裏はなさそうだぞ。」
「……。」
鈴木の言葉に来島はなんの反応も示さなかった。鈴木はそんな彼の様子に深くため息をついた。
「まだ調べてみるか?」
「そのつもりだ。今日はもういいから、早速明日から取り掛かろう。」
「来島ぁ。」
急に鈴木の声色が変わった。勿論、それに気づかない来島でもない。
「お前、長生きできねぇぞ。」
来島はパソコンから目を離し、鈴木の方を向いた。彼は未だにパソコンの方向を向いてはいるものの、遠くの別のことろを見ているようでもある。やがて来島はパソコンの方を向き直し、ただ一言言うばかりであった。
「参考にするよ。」
※※※
その日、洋子の機嫌はここ数週間のうちで最も良いものとなった。はじめは夫の気まぐれで害虫駆除業者にお金を払うことに憤慨していたが、業者の青年の礼儀正しさ、真面目さ、そして何より若さと筋の通った鼻、形の良い顔の骨格などの容姿などが、自然と彼女を浮かれさせたのだ。それに、青年の笑顔やいちいちの仕草が洋子を夢中にさせた。結婚して以来、夫以外の男と20年以上接触のなかった彼女にとって、それだけ彼のような男の存在は貴重なのである。
「終わりましたよ、奥さん。」
快活な声で青年は言い放った。すかさず洋子はそれに反応した。
「お疲れ様、冷たいものでもいかが?」
「ありがたいです、床下は埃っぽいから。」
「じゃあすぐ持ってくるから。」
そう言うと洋子はすぐに冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったコップに注いだ。パチパチと氷の溶ける音は洋子すらも飲みたくなる程である。気がつけば彼女の喉も枯れていたのだ。
「どうぞ、かけて頂戴。」
洋子はコップをリビングの机の上に置いた。そして青年は「すみません」と言い、置かれたコップの手前の椅子に座りゴクゴクと飲んでいく。口から麦茶が零れたが、それがかえって青年の首筋の血管を際立たせ色気を増すのである。洋子は頬を赤らめた。
「っぁあ!美味しい!!!」
そう言うと青年は唇についたお茶を手で拭った。
「あら、何杯でもおかわりしてね。」
「いやぁもう結構、十分です。ところでこの家はいつ建てられたんですか。シロアリやゴキブリは小さいけれど行動範囲が広いから、ご近所にも同じぐらいの部屋があったらちょっと心配なんです。
「うーん、そうねぇ。あるにはあるけど……。」
洋子は歯切れが悪そうに言った。青年は辛抱強く2の句を待った。
「この近所だと、安田さんの家だけど、多分あそこはシロアリどころじゃないと思うの。」
「どういうことですか?」
青年は前のめりに話を聞いていた。その姿に洋子は口を開かずにはいられなかった。
「い、いやね、旦那さんが癌になって以来、そこのお嫁さん、奈保子さんって言うんだけど、奈保子さんがずっと面倒を見てるって。ああいうの、確か老々介護って言うのよね。」
「そうですか、でも夫婦仲がいいんですね。」
「それがねぇ、そうでもないみたい。」
洋子の目は水を得た魚のようにキラキラと輝きだした。青年はその変化を逃さなかった。
「そうなんですか、でもご主人さんを介護しているんでしょう?」
「だって、他に頼るところがないから、仕方なくじゃない。詳しくはあたしもよくしらないけど、あの夫婦、何年か前に子供を亡くしているみたいよ。」
一瞬、青年の目が大きく見開いた。
「何故、亡くなったんですか?」
「事故なんだって。何十年か前に洪水で流されたんだって言うの。夫婦もそれまでは仲睦まじいい間柄だったらしいけど、それからは他人も同然。旦那は仕事仕事で家には一切寄り付かないし、奈保子さんは奈保子さんで趣味の茶道教室や習い事で忙しくしてたみたいよ。」
「そうですか、なんだか想像も出来ませんね。」
「そう?まぁあたしはそこの茶道教室に通っていたんだけど、奈保子さんは楽しそうにやってるみたいだったけど。内心ご主人の事はどうでも良かったのかもね。」
「……。」
「そうだ、お兄さんもいることだし、久しぶりにあたしもお手前を披露しちゃおうかしら。」
洋子は興奮のあまり、自分でも思わぬことを口走り、いよいよ顔を真赤にしていた。しかしそれとは裏腹に、青年は下を向いたままでボソボソと呟いた。
「結構です、もうお暇しないと。」
「……そう、残念。」
洋子は肩をすくめた。しかし今日だけではないだろうという、無根拠な自信が同時に彼女の内から沸き上がってきた。
「でもでも、今日だけじゃないでしょう。また点検とかなんかでまたくるでしょう。」
「ええ」と青年は、再び屈託のない笑顔を彼女に向けた。それを見るだけで、洋子は自分の思いが通じた気さえした。
「また寄らせていただきますよ。その時もご贔屓に。」
そう言うと青年は持ってきた荷物をさっさと片付け簡単な挨拶をして出ていった。その右手には洋子の電話番号の書いている紙がしっかりと握らされていた。
※※※
来島が外で安田氏の情報を集めている間、鈴木は安田家の近くで双眼鏡と集音マイクを使って、所謂、「張り込み」をしていた。が、彼らに夫婦らしい会話は一切なく、「お茶はいらないか。」「背中を拭くか。」など、事務的な内容のものばかり。流石に鈴木もこれには眠気を覚えずにはいられなかったが、別の事を考えたり、安田氏の挙動の細かい部分に興味を持ったりなど、彼なりの工夫をしてそれを凌いでいた。そんな時である、突然彼の肩をトントンと叩いてくるものがいる。思わず肩に力が入った。振り返ってみるとそこには来島の姿があった。鈴木はイヤホンを外しながら抗議した。
「脅かすなよ。」
「すまん、ところで差し入れだ。」
見ると彼の右手にはコンビニのレジ袋が握られていた。中には弁当が入っているらしい。
「おう、サンキュー。助かったわ。」
「どうだ、調子は?」
「ああ、夫婦の会話ってこんなにもないのかっていうぐらいなんも話さないな。あと戸籍標本持ってきた。」
「持ってきたって、夫婦の本籍地は岐阜だろう。どうやって……。」
「住基ネットをハックしてプリントした。役所印がどこにもないだろう。」
そう言って鈴木は来島に戸籍標本を手渡した。彼はすっかり感心してしまった。いつもはおどけたようなことばかり言っていても、こういうところは自分よりも先輩だとも思った。
「続柄のところを見てみろよ。昔子供がいたんだ。隆行(たかゆき)って言うらしいな。」
「知ってる、近所に聞き込みをした時に分かったんだ。交通事故で亡くなっているらしい。こっちも当時の新聞のコピーを持ってきた。」
そう言うと、彼はコンビニ袋を机に置いて、反対にもっていたビジネスバッグから資料を取り出そうとした。
「なんだ、知ってたのか。」
鈴木はつまらなさそうに言った。それに構わず、来島は続ける。
「しかし、問題が夫婦間となると直接接触した方がいいかもな。」
「安田のおっさんにか?」
「奈保子夫人にだ。俺に考えがある。」
「ほう……。ところで来島ぁ、ここの部屋の奴はお前んところの会長とどういう繋がりだ?明らかに誰か住んでいるぞ。数日のうちにこんな部屋を貸してくれるなんて、妙だとは思わなかったのか。」
確かに鈴木の言い分も苦しまには理解でした。部屋を見渡すと冷蔵庫や箪笥などの家具はひと通り揃っており、観葉植物などの住居人の趣味も思われるものまである。しかし、何事も私情を挟まないほうが良い事も来島は同時に理解していた。
「金持ちの道楽者の家。それ以外はしらない方がいい。」
「……ふうん。」
そう言って鈴木は納得した風を装い、弁当の蓋を開けはじめた。
※※※
安田奈保子(なおこ)はいつものように行きつけのスーパーで買い物をして帰ろうとしていたところ、荒々しい男たちの声を耳にした。それらはどれも若そうである。が、同時に物騒だとも彼女は思った。奈保子は警戒しその声を注意深く聞いた。どうやら路地の隙間から聞こえてきているらしい。しかもこちらに近づいでくるではないか。「待たないか」、「許されると思ってんの」という叫び声が辛うじて聞きとれる。誰かが追われているようであった。やがて路地の隙間から1人の男が現れた。背は高く、スーツを着ていた。どうやら社会人になって間もないような青年である。そしてそれに続いて2、3人の若い衆が路地の影から出てきた。彼らは青年とは対照的に、パンツを腰で履いたり髪を伸ばし放題伸ばしたりと品がなく、どれもが兎を狩る狼のような形相をしていたのだ。奈保子には、彼らはこの青年を追いかけて楽しんでいるように見えた。やがて青年は奈保子の少し先のところでつまずいてしまった。柄の悪い不良共は彼を嘲り笑う。
「だっせぇぇ!!つまずいたぜこいつ!!!!!」
「人にちょっかい出すからだよぉ、おっさぁん。」
やがて不良共は笑うことに飽きると、なんと今度は青年を蹴手繰り遊びはじめたではないか。ここまでくるとじっとその様子を見守っていた奈保子も黙ってはおけなかった。彼女は鞄に持っていた携帯電話を握りしめて、一歩一歩彼らに近づいた。すると、不良共の1人が彼女の存在に気がついた。
「おい、ばばぁ!!なんか文句あるの?」
奈保子はそれに負けじと虚勢を張った。
「通報しましたよ!!」
彼らに一瞬、動揺が走った。が、なめられてもいけないという気持ちも同じぐらい強かった。男3人が鋭い目つきで老婆を見てきたのである。が、奈保子はここで視線を反らすと不味いと思い、それらから決して目を離すことはなかった。やがて、1人のリーダーらしき男が遂に自身の不安に負けたらしく、
「もういい、行こうぜ。」
と言い、仲間を引き連れて去ろうとした。仲間も流石に警察沙汰は嫌だと思ったのか大人しくその言葉に従いその場を去っていった。ここで漸く、奈保子も大きく息をつくことができた。そして、青年に優しく声をかけてやった。
「大丈夫なの?」
「……え、ええ。なんとか。」
見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったと思われるスーツは埃と不良共の足あとだらけである。
「あらあら、ひどくやられちゃったね。どう、うちにきてゆっくりしていったら?」
青年は少し困ったような表情を見せた。
「いや、お気持ちは有難いですが、流石に迷惑ですので……。」
しかしそんな青年の姿は、奈保子には少し滑稽に見えた。
「なに言ってるの。そんな格好でどこ行くかは分からないけど、うちでゆっくりしていった方がいいわよ。」
この言葉に青年は観念したらしく、微笑を見せながら漸く地面から起き上がった。
「すみません、ご厄介になります。あ、申し遅れました。来島明良と言います。」
※※※
来島は不良たちを使い奈保子と無事接触に成功した後、安田家のシャワーを借り汚れを落とさせて貰った。そして今は茶の間、嘗て茶道教室として使われていたであろう草庵に部屋へと招かれていた。壁には「一華開五葉」の掛け軸が掛けられてある。彼女は彼を怪しんでいる様子は一切ないらしかった。
「すみません、何から何まで。」
そう来島が言うと、奈保子は微笑んでそれに応えた。
「いいのいいの。うちにはどうせ、私と主人だけしかいないんですから。」
「ご主人さんもいるんでしたら是非挨拶しておかなければ。見ず知らずの男がいきなりいたら驚いちゃいますよ。」
「いいえ、主人はちょっと病気してて家をウロウロすることなんてないの。」
「病気、ですか。」
「そう、癌なんです。」
来島はわざと驚いたような表情を見せた。
「そうだったんですか……。いえ、うちも祖母が癌でしてね。実家の兄夫婦が介護してるんです。」
「そう、お兄さんも大変ね。」
「ええ、いつも苦労話ばかり聞かさていますよ。」
「そうねぇ、結局、負担は全部家族にいっちゃうのよね。」
来島は内心ぎょっとした。奈保子の言い方はそれ程までに空虚でひやりとする冷たさを帯びていたのである。
「でも、頼りは兄だけなんです。それはご主人さも同じじゃないですか。」
「そうね……。なんせ主人は医者の言うことを押し切って、我儘で自宅療養になちゃったもんだから。それで2言目には、俺は病気だからっていうの。ホント嫌になるわ。」
「……。」
「……。」
「それにしても本格的な草庵だなぁ。」
「あら、分かるの?」
急にそれまでの冷ややかな空気は去り、奈保子の表情もぱっと明るさを取り戻した。
「ええ、古い建物を見るのが好きでして。お茶をされているんでしょう。」
「昔はこれでもお茶の先生をやっててね。仕事仕事の主人が建ててくれたの。家にいれないせめてもの罪滅ぼしにね。」
「いいご主人さんじゃないですか。」
「そう?何事にも細かくれて五月蝿いよ、食べのもだって好き嫌い激しいし。レバーはダメ、きのこ類はダメ、トマトはダメ。献立を考えるのにも一苦労よ。」
「……。」
「貴方には嫌いなものはないの?」
「ええ、昔から母には食べ物に関して五月蝿く言われてきたので。」
「なんだか私と話していると、それこそお母さんといるみたいじゃない。」
「そんな。」
「いいの。それぐらい歳は離れているんだし。そう言えば、貴方仕事は?」
「実は先日まで勤めていた会社が潰れてしまって……あ!!」
急に来島は何か思い出したように言った。
「すみません、僕面接に行くところだったんです。」
その言葉を聞いて、奈保子もついつい慌てだした。
「あら大変!」
「すみません、折角お邪魔させていただいたのに。今度改めてお礼に伺います。」
「そんな、いいの。忘れ物だけないようにね。」
そう言うと奈保子は来島を玄関まで送って行くことにした。来島は手早く準備を済ませ、早々に立ち去っていった。
2014年7月24日木曜日
2014年6月27日金曜日
タナトスの使者ーFile1−2
来島は早速、安田を「審査」する為に鈴木に連絡をとった。鈴木は彼の右腕とも言える存在で、これまでに幾度となくコンビを組んで仕事をこなしてきた、言わば戦友なのである。来島は彼に基本的な情報を調べさせた。鈴木はその日のうちに、しかも1時間とかからない時間で彼に情報を送ってくれた。それによると、安田は15年前まで大手総合建設業、所謂ゼネコンの役員をやっていた、エリートサラリーマンであることがわかった。また欠勤も退勤も殆ど無く、真面目に勤務していたようである。しかしこれでは彼の事をまだ分かったことにはならない。来島は携帯電話を取り出し、鈴木に電話をかけた。
「もしもし、来島だ。データには目を通した。……ああ、だけどまだ白だとは言い切れない。いつでもいいからうちに来てくれないか。……悪いがよろしく頼む。」
来島の家からだと鈴木の家はそう遠くはないが、夜も大分更けている。恐らく明日の朝ぐらいにくるだろう。そう来島は考えたが、この彼の計算は少し甘かったようだ。彼の家のインターフォンは、彼が予想していたよりもはやく鳴ったのだ。ため息混じりに玄関のドアを開けにいった。すると、そこには今風の黒縁の眼鏡をかけ、髪の上部のみを染めた、いかにも軽薄そうな男がそこにいた。
「これじゃあ藤堂会長に軽いと言われても、俺は反論できないな。」
「失礼だなぁ。」
鈴木は笑って反論しているものの、少し心外に思っているらしい。
「善は急げって言うじゃない。仕事に対して実直なだけだよ。」
「……分かったから入れ、珈琲でも入れてやる。」
鈴木はそう言った軽薄さとは裏腹に、靴をきちんと整えてから上にあがった。彼は見かけと言動とは裏腹に、慎重で細かいのだ。来島はこうした彼の細やかさや慎重さを感心せずにはいられなかった。しかし声に出して褒めたことは一度もない。
「で、あと僕は何をすればいいの?」
「張り込みをして欲しい。依頼人の近くのマンションを借りれる事になっている。」
「期間は?」
「そうだな、2週間ぐらいだな。その間俺は依頼人の奥さんに接近する。」
「どうやって?」
「……まぁ手段ならいくらでもあるさ。だがあまり時間は長くかけたくない。会長からもそう言われている。」
「そうだね、誰かに感づかれないとも限らないし。」
このような会話をしている間、来島は珈琲をいれて彼の前に出してやった。鈴木は礼を言ってから、一口目をゆっくり味わった。
「……お、やっぱ珈琲だけはお前の方が美味いな。」
「だけとか言うな。それよりも明日からしっかり取り掛かってくれ。」
「へいへい。」
「それから、それ飲んだらさっさと帰れよ?俺だって依頼人とどう接近するか考えないといけないしな。」
「えー、つれないなぁ。折角来たんだし、もうちょっとゆっくりさせてよぉ。」
人懐っこい声で鈴木は言った。しかし来島は彼を容赦なく突き放す。
「非常識な時間に人の家に来といて何言ってるんだ。大体、今日じゃなくても良かっただろ?」
そう言われた鈴木の顔が一瞬ニヤついた。来島は彼のこの表情が妙に引っかかった。
「ただ僕が仕事の話をはやく聞きたいが為にきたと思っているなら、それは間違いだよ。」
そう言うと鈴木は自分の鞄の中から数枚の書類を取り出した。来島はそれを手に取り目を通しはじめた。それは安田に関する、住民票や戸籍標本など、どれも重要な個人情報ばかりであった。
「そこに面白い事実がのってあるよ。」
やがて徐々に来島の表情が真剣になっていった。それとは対照的に、鈴木は鈴木で愉快そうにそうした彼を見ている。
「……鈴木、調べる価値はありそうだな。」
安田奈保子は、いつものように行きつけのスーパーで買い物を済ませて家路につこうとしていたところ、荒々しい男達の声を耳にした。声の主たちはどれも若そうではあったが、どれもお世辞にも上品とは言えぬ台詞を吐いていた。声は自然と奈保子の方へと向かってきた。心臓が脈打ってきたのが自分でもよく分かった。が、彼女は平生を保てる自信も同時に持ち合わせていた。やがて、裏路地から1人の男の影がうっすらと見えてきた。春らしく涼しそうなスーツを身につけているが、20代ぐらいだろうか。必死の形相をして走ってきた。その後ろから、髪を金色に染めた者や、髪を好き放題に伸ばしピアスをつけている者、そうかと思えば、綺麗に毛を抜いた者まで実に派手やかで柄の悪そうな集団が血眼にスーツの若者を追ってきた。若者は決して捕まらんとここまで頑張ってきたようだが、やがて賑やかな男たちの迫力に負けたのか、足を絡ませて七転八倒した。その様子を見た集団は下品な声で嘲笑し、その中の1人が男を蹴りはじめた。
「だっせぇなぁ、おい!!!!え!??」
「ねぇねぇねぇねぇ、何に躓いたの??んん??」
1人に続いてもう1人、更にもう1人と罵声を浴びせながら、集団は蹴手繰り出す。奈保子はすかさすバッグから携帯電話を取り出し、「ちょっと!!」と大きな声で集団に向かって言った。しかしそれに狼狽したのは奈保子の方ではなくて、賑やかな男たちの方であった。誰か奈保子の手の中にある機械の存在に気づくと「やべっ、見られた!!」と言い、仲間の背中を叩いて逃げ出した。他の仲間もそれに従う形で次々と逃げていった。彼らが逃げると、奈保子はすかさずスーツの青年の方に走り寄った。
「大丈夫なの?」
「え、ええ、大丈夫です。」
見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったばかりと思わしきスーツは埃にまみれ、靴の跡がいくつもついていた。
「怪我してるじゃない。お洋服もボロボロ。あたしの家でゆっくりしていったら?」
「いや……でも…。」
青年は明らかに躊躇していた。自分に遠慮しているのだろうと奈保子は思い、やさしい口調で諭そうとする。
「何処に行くつもりかは知らないけれど、その格好では駄目だよ。遠慮せずに……ね。」
「……すみません、何から何まで。」
それから2人は安田家へと向かい、そこで青年は傷の手当をしてもらい、顔を洗わせてもらった。その間、青年は自分の事について色々と話した。名は宮田と言い、就職活動中の大学生らしい。そして先程の男たちには、目を合わせた瞬間に誤解されたらしく、追いかけられる羽目になったというのだ。
「しかし安田さん、息子さんも僕ぐらいの年頃じゃないですか?」
奈保子はにこやかな表情で答えた。
「そうね、産んでいればそれぐらいかな。でも、残念ながら主人とあたしには子供はいないから。」
青年はほんの一瞬、目が鋭くなった。しかし奈保子は全く気づかなかった。
「そうなんですか、ところでご主人さんは今はお仕事をさているんでしょうか。急にお邪魔させてもらった手前、挨拶なしにはちょっと……。」
「ごめんなさいね。」
奈保子は先ほどの調子とはやや違い、俯きボソボソとした口調で言った。
「家にいるんだけど、今癌でね。滅多に人には会いたがらないの。だからごめんなさいね。」
「……そうでしたか。」
察するように青年は続けた。
「僕の父も癌で療養してて、今は実家の兄が週に何度か病院に通っています。」
奈保子の目は少し大きく開いた。
「まぁそうだったんだ。お兄さんも大変じゃない。」
「ええ、でもこの前なんか、親父は病気になっても我儘で困るって愚痴を零していました。」
「そうなんだ。」
奈保子の表情が少し和らいだ。それを見た青年も笑みを浮かべた。
「安田さんのご主人さんって、どんな方なんですか?」
「んー、堅物で根っからの仕事人間ね。そして仕事仕事かと思えば、今度は病気して家にこもりっきり。全く、人の気も知らないでね。」
そう語る奈保子の顔は夫に対する憎さと怒りとの表情に満ちているように、青年には見てとれた。しかし、奈保子は青年のそうした真剣な眼差しに気づくとはっとした。
「あっ!!ごめんなさい。なんだか愚痴っぽくなっちゃって。」
今度は困ったような笑いを浮かべた。対する青年は愉快そうに答えた。
「ごめんなさいはこっちのほうなのに、なんだか安田さんの方が謝ってばっかりだ。」
「あら、あの状況で助けないわけにはいかないから、そんな気にすることないとおもうけど?」
「もう行かなきゃ。長居し過ぎました。」
そう言うと青年は立ち上がり、帰り支度をはじめる様子を見せた。
「あら、じゃあまた暇な時に寄っていって。こんな時間ばかりを持て余した老婆の相手を良かったらしに来てね。」
「いえいえ、安田さんは気持ちもお若い。それじゃあお世話になりました。」
青年は安田家をあとにすると、ポケットから携帯電話を取り出し、あるところに電話をかけた。
「もしもし、鈴木。さっき出てきた。」
「おお、どうだった?」
電話の向こうの鈴木と呼ばれた男は興味津々といった感じで青年の話に食いついた。
「安田氏の事を嫌っているようにも見えなくはない。」
「おまえ……それどっちだよ。」
鈴木は呆れたような声を出した。
「今の時点ではまだ分からん。だがあの夫婦に何らかの亀裂がある事は確かだな。」
「そりゃあ、あれ以外にないんじゃない?」
「結論を出すのははやい。お前の方はどうだ?」
「退屈なもんさ。話もなんかこう、店員さんとお客さんのやりとりみたいに、「お身体拭きましょうか」、「うん」、「ご飯にしましょうか」、「うん」ぐらいなもんだよ。あとは時々爺さんが咳き込む声が聞こえてくるだけ。」
「収穫なし、か。あとで食い物買っていってやるから、欲しいものがあればメールをくれ。」
「おう、流石に腹へったわぁ。頼んだよ、来島。」
青年は通話を切り、急ぎ足で何処かへと歩いていった。
「もしもし、来島だ。データには目を通した。……ああ、だけどまだ白だとは言い切れない。いつでもいいからうちに来てくれないか。……悪いがよろしく頼む。」
来島の家からだと鈴木の家はそう遠くはないが、夜も大分更けている。恐らく明日の朝ぐらいにくるだろう。そう来島は考えたが、この彼の計算は少し甘かったようだ。彼の家のインターフォンは、彼が予想していたよりもはやく鳴ったのだ。ため息混じりに玄関のドアを開けにいった。すると、そこには今風の黒縁の眼鏡をかけ、髪の上部のみを染めた、いかにも軽薄そうな男がそこにいた。
「これじゃあ藤堂会長に軽いと言われても、俺は反論できないな。」
「失礼だなぁ。」
鈴木は笑って反論しているものの、少し心外に思っているらしい。
「善は急げって言うじゃない。仕事に対して実直なだけだよ。」
「……分かったから入れ、珈琲でも入れてやる。」
鈴木はそう言った軽薄さとは裏腹に、靴をきちんと整えてから上にあがった。彼は見かけと言動とは裏腹に、慎重で細かいのだ。来島はこうした彼の細やかさや慎重さを感心せずにはいられなかった。しかし声に出して褒めたことは一度もない。
「で、あと僕は何をすればいいの?」
「張り込みをして欲しい。依頼人の近くのマンションを借りれる事になっている。」
「期間は?」
「そうだな、2週間ぐらいだな。その間俺は依頼人の奥さんに接近する。」
「どうやって?」
「……まぁ手段ならいくらでもあるさ。だがあまり時間は長くかけたくない。会長からもそう言われている。」
「そうだね、誰かに感づかれないとも限らないし。」
このような会話をしている間、来島は珈琲をいれて彼の前に出してやった。鈴木は礼を言ってから、一口目をゆっくり味わった。
「……お、やっぱ珈琲だけはお前の方が美味いな。」
「だけとか言うな。それよりも明日からしっかり取り掛かってくれ。」
「へいへい。」
「それから、それ飲んだらさっさと帰れよ?俺だって依頼人とどう接近するか考えないといけないしな。」
「えー、つれないなぁ。折角来たんだし、もうちょっとゆっくりさせてよぉ。」
人懐っこい声で鈴木は言った。しかし来島は彼を容赦なく突き放す。
「非常識な時間に人の家に来といて何言ってるんだ。大体、今日じゃなくても良かっただろ?」
そう言われた鈴木の顔が一瞬ニヤついた。来島は彼のこの表情が妙に引っかかった。
「ただ僕が仕事の話をはやく聞きたいが為にきたと思っているなら、それは間違いだよ。」
そう言うと鈴木は自分の鞄の中から数枚の書類を取り出した。来島はそれを手に取り目を通しはじめた。それは安田に関する、住民票や戸籍標本など、どれも重要な個人情報ばかりであった。
「そこに面白い事実がのってあるよ。」
やがて徐々に来島の表情が真剣になっていった。それとは対照的に、鈴木は鈴木で愉快そうにそうした彼を見ている。
「……鈴木、調べる価値はありそうだな。」
安田奈保子は、いつものように行きつけのスーパーで買い物を済ませて家路につこうとしていたところ、荒々しい男達の声を耳にした。声の主たちはどれも若そうではあったが、どれもお世辞にも上品とは言えぬ台詞を吐いていた。声は自然と奈保子の方へと向かってきた。心臓が脈打ってきたのが自分でもよく分かった。が、彼女は平生を保てる自信も同時に持ち合わせていた。やがて、裏路地から1人の男の影がうっすらと見えてきた。春らしく涼しそうなスーツを身につけているが、20代ぐらいだろうか。必死の形相をして走ってきた。その後ろから、髪を金色に染めた者や、髪を好き放題に伸ばしピアスをつけている者、そうかと思えば、綺麗に毛を抜いた者まで実に派手やかで柄の悪そうな集団が血眼にスーツの若者を追ってきた。若者は決して捕まらんとここまで頑張ってきたようだが、やがて賑やかな男たちの迫力に負けたのか、足を絡ませて七転八倒した。その様子を見た集団は下品な声で嘲笑し、その中の1人が男を蹴りはじめた。
「だっせぇなぁ、おい!!!!え!??」
「ねぇねぇねぇねぇ、何に躓いたの??んん??」
1人に続いてもう1人、更にもう1人と罵声を浴びせながら、集団は蹴手繰り出す。奈保子はすかさすバッグから携帯電話を取り出し、「ちょっと!!」と大きな声で集団に向かって言った。しかしそれに狼狽したのは奈保子の方ではなくて、賑やかな男たちの方であった。誰か奈保子の手の中にある機械の存在に気づくと「やべっ、見られた!!」と言い、仲間の背中を叩いて逃げ出した。他の仲間もそれに従う形で次々と逃げていった。彼らが逃げると、奈保子はすかさずスーツの青年の方に走り寄った。
「大丈夫なの?」
「え、ええ、大丈夫です。」
見ると青年の唇の横あたりが少し腫れており、新しく買ったばかりと思わしきスーツは埃にまみれ、靴の跡がいくつもついていた。
「怪我してるじゃない。お洋服もボロボロ。あたしの家でゆっくりしていったら?」
「いや……でも…。」
青年は明らかに躊躇していた。自分に遠慮しているのだろうと奈保子は思い、やさしい口調で諭そうとする。
「何処に行くつもりかは知らないけれど、その格好では駄目だよ。遠慮せずに……ね。」
「……すみません、何から何まで。」
それから2人は安田家へと向かい、そこで青年は傷の手当をしてもらい、顔を洗わせてもらった。その間、青年は自分の事について色々と話した。名は宮田と言い、就職活動中の大学生らしい。そして先程の男たちには、目を合わせた瞬間に誤解されたらしく、追いかけられる羽目になったというのだ。
「しかし安田さん、息子さんも僕ぐらいの年頃じゃないですか?」
奈保子はにこやかな表情で答えた。
「そうね、産んでいればそれぐらいかな。でも、残念ながら主人とあたしには子供はいないから。」
青年はほんの一瞬、目が鋭くなった。しかし奈保子は全く気づかなかった。
「そうなんですか、ところでご主人さんは今はお仕事をさているんでしょうか。急にお邪魔させてもらった手前、挨拶なしにはちょっと……。」
「ごめんなさいね。」
奈保子は先ほどの調子とはやや違い、俯きボソボソとした口調で言った。
「家にいるんだけど、今癌でね。滅多に人には会いたがらないの。だからごめんなさいね。」
「……そうでしたか。」
察するように青年は続けた。
「僕の父も癌で療養してて、今は実家の兄が週に何度か病院に通っています。」
奈保子の目は少し大きく開いた。
「まぁそうだったんだ。お兄さんも大変じゃない。」
「ええ、でもこの前なんか、親父は病気になっても我儘で困るって愚痴を零していました。」
「そうなんだ。」
奈保子の表情が少し和らいだ。それを見た青年も笑みを浮かべた。
「安田さんのご主人さんって、どんな方なんですか?」
「んー、堅物で根っからの仕事人間ね。そして仕事仕事かと思えば、今度は病気して家にこもりっきり。全く、人の気も知らないでね。」
そう語る奈保子の顔は夫に対する憎さと怒りとの表情に満ちているように、青年には見てとれた。しかし、奈保子は青年のそうした真剣な眼差しに気づくとはっとした。
「あっ!!ごめんなさい。なんだか愚痴っぽくなっちゃって。」
今度は困ったような笑いを浮かべた。対する青年は愉快そうに答えた。
「ごめんなさいはこっちのほうなのに、なんだか安田さんの方が謝ってばっかりだ。」
「あら、あの状況で助けないわけにはいかないから、そんな気にすることないとおもうけど?」
「もう行かなきゃ。長居し過ぎました。」
そう言うと青年は立ち上がり、帰り支度をはじめる様子を見せた。
「あら、じゃあまた暇な時に寄っていって。こんな時間ばかりを持て余した老婆の相手を良かったらしに来てね。」
「いえいえ、安田さんは気持ちもお若い。それじゃあお世話になりました。」
青年は安田家をあとにすると、ポケットから携帯電話を取り出し、あるところに電話をかけた。
「もしもし、鈴木。さっき出てきた。」
「おお、どうだった?」
電話の向こうの鈴木と呼ばれた男は興味津々といった感じで青年の話に食いついた。
「安田氏の事を嫌っているようにも見えなくはない。」
「おまえ……それどっちだよ。」
鈴木は呆れたような声を出した。
「今の時点ではまだ分からん。だがあの夫婦に何らかの亀裂がある事は確かだな。」
「そりゃあ、あれ以外にないんじゃない?」
「結論を出すのははやい。お前の方はどうだ?」
「退屈なもんさ。話もなんかこう、店員さんとお客さんのやりとりみたいに、「お身体拭きましょうか」、「うん」、「ご飯にしましょうか」、「うん」ぐらいなもんだよ。あとは時々爺さんが咳き込む声が聞こえてくるだけ。」
「収穫なし、か。あとで食い物買っていってやるから、欲しいものがあればメールをくれ。」
「おう、流石に腹へったわぁ。頼んだよ、来島。」
青年は通話を切り、急ぎ足で何処かへと歩いていった。
2014年6月15日日曜日
ヘレン・ケラーはどう教育されたかー1887年3月6日〜4月3日(修正版5)
1・躾期
1887年3月6日ーヘレンの欠点とはどういうものか
アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーという7歳前後の少女と出会う以前、彼女の事を「色白くて、神経質な子供」だと思っていました。これはハウ博士が書いた、ローラ・ブリッジマンのレポートを読んだ上で、彼女との教育を予め想定した事が由来しています。
ですが実在のヘレンはそのような人物ではありませんでした。彼女はこれまで両親に、なんの制約も制限も受けてこなかった為に、活気溢れる健康的な子供へと育ってきたのです。じっとしていることは殆どなく、子馬のようにうごきまわっています。
ですが、そうした教育方針が仇となっている面もあるのです。ヘレンとはじめてあったサリバンは、彼女の突進を受けて、危うく地面に頭をぶつけそうになりました。そればかりか、彼女はサリバンのバッグを勝手に開けて、なんと中身を確認しようとしたのです。一体何故彼女はもうすぐ7歳の少女とは思えない、幼稚で無作法な行動をとってしまうのでしょうか。
先程も述べておいたように、彼女は両親によって「自由に育てられて」きました。例えそれが子どもとして、人間としてやってはいけない行動であっても、障害を持って生まれた子供への同情から、子供故の純粋な気持ちから来ていることを察している事から、それらを容認してきたのです。またヘレンの側でも、他人のしている行動や行為が物理的に見えない、聞こえないという事情から、外界からの情報が殆どはいってはきません。ですからヘレンは私たちの原始的な感情たる快不快の感覚だけが極端に発展させていき、社会性を持たない子供へと成長していってしまったのです。
そこでサリバンは自身のはじめの仕事として、教育以前の、人間の土台となり得る躾の部分から手をつけようと考えたのでした。
1887年3月月曜の午後ー人間的に躾けるとはどういうことか
ですが、サリバンの言うところの躾とは、どのようなことを指すのでしょうか。この手紙を書いた日、彼女はヘレンと激しい喧嘩をしています。原因はヘレンの食事作法にあったのですが、それが目の前のものは全て手づかみでとり、欲しいものは例え他人の皿でも勝手に取るといった、すさまじしいものでした。ここで「成程、流石にこれは誰でも怒るだろう。」と思った方も多いでしょう。ですがサリバンは単純に、その作法の汚さ見苦しさから怒った訳ではありません。
私たちはどのようにして便器で用を足すことを学んだのでしょうか。どのようにしてお風呂で体を洗い、清潔を保つことを習慣化させていったのでしょうか。言うまでもなく、自分の両親から「人間として」躾を受け、習慣とさせていったのです。ですがこれが人間以外のもの、例えば狼に育てられたのならば、どうなっていたでしょうか。こう問われると、一部の方々は「アマラとカマラ」を彷彿すると思います。彼女らは狼に育てられた為に、背筋は曲がり、口を食べ物に近づけて食事をし、4本足で歩行したといいます。私たち人間は他の動物とは違い、はじめから人間として完成している訳ではありません。複雑なルールや取り決めのある社会で生きる為に、人間として躾られることではじめて人間と言えるのです。
ですからサリバンは、ヘレンの、あまりに人間としての作法から離れたこうした食べ方を容認する事は出来ず、躾が必要だと感じ実力で言うことをきかせようとしたのでした。
しかし大きな課題も残りました。結果的にヘレンは正しく食事をすることが出来ましたが、それまでに両者ともくたくたになるまで争わなければならなかったのです。こうしたことを続けていて、果たしてヘレンの躾はうまくいくのでしょうか。
1887年3月11日〜13日ーそれまでの自分を捨てさせる
サリバンはそれまでの方針を大きく変えて、ヘレンと「つたみどりの家」ということろで2人暮らしをはじめることにしました。そもそもヘレンがこうなってしまったのは、彼女の独裁を許してきた両親にも責任があるのです。両親は彼女の我儘を受け入れ続けてきた事で、自然とそれを受け入れる心身を手に入れ、環境を整えてしまっていったのでした。ですから彼女が幾ら人のお皿に手をつけようとも叱ったりはせず、泣き喚けば全てを許して彼女に屈服するのです。そしてヘレンの側でも、そうした自分にとって我儘を言いやすい環境が整っていた為に、暴君としての気質を磨いてきました。
だからこそサリバンは、そうした暴君の存在を許せる環境からヘレンを一度切り離した上で、独裁できない環境で躾けようとしたのです。
そして、サリバンは彼女の暴君としての気質を失わせるべく、彼女を「征服」することにしました。「征服」と言っても一般的な野蛮な意味ではなく、前回の手紙のように、人の道にあまりにも逸れた行動にのみ、力によって抑えこむことを意味します。これにははじめの方こそ、ヘレンは強い拒否を示し、手がつけられない程でした。ですが「つたみどりの家」がこれまでのような、独裁を許してくれる環境ではないことを悟ると、不本意ながらも言うことを聞くようになっていきます。
2・知性の生成
3月20日〜4月3日ー教育の土台の生成
環境という自身よりも大きなものが変化していったことで、ヘレンの内面もそれに合わせる形で変化を見せているようです。はじめはあれ程「征服」されることを拒んでいたものの、日が経つにつれてそれを受け入れはじめました。そして「征服」されることに慣れてくると、今度はそれを楽なものだと感じるようになっていったのです。またサリバンの側でも、彼女がうまく「征服」を受け入れた時には、好きなものを与えたり頭を撫でたりなどして、「征服」されることを快感とすら思うようにさせていったことが考えられます。
ですから3月20日というその日を、ヘレンは晴れやかな表情で迎えられたのです。彼女は「征服」を完全に受け入れると同時に、人間として「やってもいい、いけない」という事を学んだのでした。
しかし彼女はまだ、教育という長い道のりのスタートラインにたったに過ぎません。また更に大きな問題は、彼女は「ことば」というものの存在にすら気づいてはいません。私たちは知識や知恵を「ことば」によって保存し、自由自在に使うことができます。それは「犬」や「猫」といった具体的な概念から、「理念」や「思想」といった高度な概念まで、あらゆるものを「ことば」によって規定し他者との交流に用いるのです。だからこそ、「ことば」というものは、人間社会において他者と交わることにおいて欠かすことは出来ません。ましてや、何かを教えたり自身の考えを伝えたりする教育の場において、それなしには不可能と言っていいほどでしょう。果たして彼女らはこの大きな問題をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。
1887年3月6日ーヘレンの欠点とはどういうものか
アン・マンスフィールド・サリバンはヘレン・ケラーという7歳前後の少女と出会う以前、彼女の事を「色白くて、神経質な子供」だと思っていました。これはハウ博士が書いた、ローラ・ブリッジマンのレポートを読んだ上で、彼女との教育を予め想定した事が由来しています。
ですが実在のヘレンはそのような人物ではありませんでした。彼女はこれまで両親に、なんの制約も制限も受けてこなかった為に、活気溢れる健康的な子供へと育ってきたのです。じっとしていることは殆どなく、子馬のようにうごきまわっています。
ですが、そうした教育方針が仇となっている面もあるのです。ヘレンとはじめてあったサリバンは、彼女の突進を受けて、危うく地面に頭をぶつけそうになりました。そればかりか、彼女はサリバンのバッグを勝手に開けて、なんと中身を確認しようとしたのです。一体何故彼女はもうすぐ7歳の少女とは思えない、幼稚で無作法な行動をとってしまうのでしょうか。
先程も述べておいたように、彼女は両親によって「自由に育てられて」きました。例えそれが子どもとして、人間としてやってはいけない行動であっても、障害を持って生まれた子供への同情から、子供故の純粋な気持ちから来ていることを察している事から、それらを容認してきたのです。またヘレンの側でも、他人のしている行動や行為が物理的に見えない、聞こえないという事情から、外界からの情報が殆どはいってはきません。ですからヘレンは私たちの原始的な感情たる快不快の感覚だけが極端に発展させていき、社会性を持たない子供へと成長していってしまったのです。
そこでサリバンは自身のはじめの仕事として、教育以前の、人間の土台となり得る躾の部分から手をつけようと考えたのでした。
1887年3月月曜の午後ー人間的に躾けるとはどういうことか
ですが、サリバンの言うところの躾とは、どのようなことを指すのでしょうか。この手紙を書いた日、彼女はヘレンと激しい喧嘩をしています。原因はヘレンの食事作法にあったのですが、それが目の前のものは全て手づかみでとり、欲しいものは例え他人の皿でも勝手に取るといった、すさまじしいものでした。ここで「成程、流石にこれは誰でも怒るだろう。」と思った方も多いでしょう。ですがサリバンは単純に、その作法の汚さ見苦しさから怒った訳ではありません。
私たちはどのようにして便器で用を足すことを学んだのでしょうか。どのようにしてお風呂で体を洗い、清潔を保つことを習慣化させていったのでしょうか。言うまでもなく、自分の両親から「人間として」躾を受け、習慣とさせていったのです。ですがこれが人間以外のもの、例えば狼に育てられたのならば、どうなっていたでしょうか。こう問われると、一部の方々は「アマラとカマラ」を彷彿すると思います。彼女らは狼に育てられた為に、背筋は曲がり、口を食べ物に近づけて食事をし、4本足で歩行したといいます。私たち人間は他の動物とは違い、はじめから人間として完成している訳ではありません。複雑なルールや取り決めのある社会で生きる為に、人間として躾られることではじめて人間と言えるのです。
ですからサリバンは、ヘレンの、あまりに人間としての作法から離れたこうした食べ方を容認する事は出来ず、躾が必要だと感じ実力で言うことをきかせようとしたのでした。
しかし大きな課題も残りました。結果的にヘレンは正しく食事をすることが出来ましたが、それまでに両者ともくたくたになるまで争わなければならなかったのです。こうしたことを続けていて、果たしてヘレンの躾はうまくいくのでしょうか。
1887年3月11日〜13日ーそれまでの自分を捨てさせる
サリバンはそれまでの方針を大きく変えて、ヘレンと「つたみどりの家」ということろで2人暮らしをはじめることにしました。そもそもヘレンがこうなってしまったのは、彼女の独裁を許してきた両親にも責任があるのです。両親は彼女の我儘を受け入れ続けてきた事で、自然とそれを受け入れる心身を手に入れ、環境を整えてしまっていったのでした。ですから彼女が幾ら人のお皿に手をつけようとも叱ったりはせず、泣き喚けば全てを許して彼女に屈服するのです。そしてヘレンの側でも、そうした自分にとって我儘を言いやすい環境が整っていた為に、暴君としての気質を磨いてきました。
だからこそサリバンは、そうした暴君の存在を許せる環境からヘレンを一度切り離した上で、独裁できない環境で躾けようとしたのです。
そして、サリバンは彼女の暴君としての気質を失わせるべく、彼女を「征服」することにしました。「征服」と言っても一般的な野蛮な意味ではなく、前回の手紙のように、人の道にあまりにも逸れた行動にのみ、力によって抑えこむことを意味します。これにははじめの方こそ、ヘレンは強い拒否を示し、手がつけられない程でした。ですが「つたみどりの家」がこれまでのような、独裁を許してくれる環境ではないことを悟ると、不本意ながらも言うことを聞くようになっていきます。
2・知性の生成
3月20日〜4月3日ー教育の土台の生成
環境という自身よりも大きなものが変化していったことで、ヘレンの内面もそれに合わせる形で変化を見せているようです。はじめはあれ程「征服」されることを拒んでいたものの、日が経つにつれてそれを受け入れはじめました。そして「征服」されることに慣れてくると、今度はそれを楽なものだと感じるようになっていったのです。またサリバンの側でも、彼女がうまく「征服」を受け入れた時には、好きなものを与えたり頭を撫でたりなどして、「征服」されることを快感とすら思うようにさせていったことが考えられます。
ですから3月20日というその日を、ヘレンは晴れやかな表情で迎えられたのです。彼女は「征服」を完全に受け入れると同時に、人間として「やってもいい、いけない」という事を学んだのでした。
しかし彼女はまだ、教育という長い道のりのスタートラインにたったに過ぎません。また更に大きな問題は、彼女は「ことば」というものの存在にすら気づいてはいません。私たちは知識や知恵を「ことば」によって保存し、自由自在に使うことができます。それは「犬」や「猫」といった具体的な概念から、「理念」や「思想」といった高度な概念まで、あらゆるものを「ことば」によって規定し他者との交流に用いるのです。だからこそ、「ことば」というものは、人間社会において他者と交わることにおいて欠かすことは出来ません。ましてや、何かを教えたり自身の考えを伝えたりする教育の場において、それなしには不可能と言っていいほどでしょう。果たして彼女らはこの大きな問題をどのようにして乗り越えていくのでしょうか。
2014年6月7日土曜日
タナトスの使者 File1−1(修正版)
ただ生きるという以外に
何の目的もなしに
いつまでも生き続け
どこまでも
生を続けていく種族というものは、
客観的には滑稽だし、
主観的には
退屈なものだろうさ
ショウペンハウエル
他者に死を与える事はいかなる場合であっても、殺人である。それが大量殺人犯であろうが快楽殺人犯であろうが、病気に苦しむ親を酷く思い息の根をとめる親思いであろうが、皆等しく罰せられるのだ。しかしそうした禁忌をあえて犯し、その業苦の人生から人々を救わんとする組織がこの世には存在するのである。彼らはギリシアの「死」の神の名に肖り、「タナロジー学会」と名乗っている。来島明良(くるしま あきら)はそんな死神の使いとなり、人々に死の審判を下していた。彼らとて、誰でも無差別に死を与えているのではない。それは公平なる良心からくるものでなければならないのだ。そして来島はいつ何時もそれを忘れまいと、月に一度の墓参りを習慣としている。手を合わせ目を瞑ると、これまで彼が審判を下してきたものの顔が浮かび上がってくる。皆人生に疲れ果て、生という鎖を断ち切ろうとしたくて堪らないといった表情を浮かべていた。その表情を丁寧に思い出していくうちに、来島は背筋がピンと伸び、全身の筋肉が締まっていくのを感じる。そうした彼の姿はまるで煉獄の亡者達の魂を狩る死神のようにすら見えてしまう。そして目を開けた瞬間には、これから自分が成すべきことが不思議と鮮明に浮かび上がってくるのだ。
ある時彼がいつものように墓参りを済まし家路につこうとすると、向こうから黒い高級車がゆっくりとこちらに近づいてきた。来島はその車に幾度となく乗ったことがある。やがて車は来島の前でとまりミラーがゆっくり開くと、男の顔が出てきた。この顔とも来島は何度も突き合わせている。
「ここだったか。」
「偶然ですね。」
来島はわざと白々しくした。この男がなんの用事もなしに彼に会うことなどということはあり得ない。しかしもしかすると、という「淡い期待」も同時に抱かずにはいられなかった。
「毎月来ているんだろう。」
来島は黙っていた。が、心の中では「やっぱり」という落胆を感じてはいた。
「頼みたい事がある。」
「……仕事ですか。」
その一言には、彼の精一杯の非難でもあった。「あなたも線香の一本ぐらいあげていってはどうですか」という言葉がそこまで出ていたが、あえて押し黙った。
「それ以外にお前と私とに何がある。すぐに取りかかれ。」
そう言うと男は彼に一枚の紙切れを渡した。そこには依頼人らしき人物の名前が書かれてある。男は彼が承諾するかしないかを確認もせずに、車を出し去っていった。ひとり取り残された彼は、紙を丁寧に折って財布の中にしまい込み、早速仕事にとりかかることにした。
安田隆一にとって最早日常というものはただ死を静かに待つだけの、無意味なものとなってしまった。10年以上前に会社を定年し、多くの友人をあらゆる病気で亡くし、そして自らも2年前からガンに全身を蝕まれて生きる気力を殆ど失っていたのだ。もう待つことも疲れ果てた彼は、いつしかいかにはやく死ねるかということばかりが頭を巡るようになっていった。やがてふと、以前に友人から聞いた、違法で他人の死を専門に扱う団体に連絡をしたことを思い出す。なんでもそこに頼めば、自分の一生を簡単に終わらせてくれるらしい。しかし待てど暮らせど今日までなんの音沙汰もない。
「そんなうまい話があるわけないか。」
彼はそんな独り言を漏らしため息をついた。その時である。窓のあたりから冷たい風が吹いているのを感じた。(可笑しいな、妻が締めていったはずなのだが……。)虚ろな眼差しで庭の窓に目を向ける。すると窓は開け放たれているばかりか、そこには季節外れにもトレンチコートを着た、若く背の高い男が立っていた。安田は何者?と思うと同時にもしや!とも思った。そして安田が自分に気がついた事を知ると、男は静かに口を開いた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。
安田にはそれだけで一切が分かった。ついに自分を殺してくれる悪魔がこの場に舞い降りてきてくれたのだ。安田はやっとかという疲れきった表情を浮かべた。
「随分遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたよ。」
この一言に安田は腹を立てた。幾ら向こうにとっては仕事だとはいえ、なんだか自分の生き死にをこの若造が安く見積もっているように思われてならなかったのだ。彼の聞きやすく、透き通った声の調子もかえってそうした感情を助長させた。
「何だと!どういうことだ!!」
「落ち着いて下さい。私は何も貴方を怒らせに来たわけではありません。」
「当たり前だ!」
来島は落ち着き払って、安田の怒りを鎮めようとした。だがその様子が更に彼を苛立たせるのだ。
「私たちにも事情というものがあるのです。それに貴方だって、誰かに自分が死ぬところを止められるのは困るのでしょう。」
「こんな老いぼれの命を誰が気にするんだ!保険会社か!!」
こうした安田の態度に来島は呆れながらも、これから自分たちが社会的にどのような事をやろうとしているのかを説明していく。
「……いいですか、私たちがやろうとしていることは立派な犯罪です。それは刑法202条(※1)にも定められています。捕まれば、私は一生檻の中でしょうし、貴方だって死ぬ前に余計な汚名がつくことになるんですよ。」
これには流石の安田も狼狽した。が、彼にとって法の存在など死の前では取るに足らない事は変わりなかった。
「……では、その調査とやらが終わったらすぐ殺してくれ。その方が君も警察に捕まることもあるまい。」
何かを圧し殺すかのようにこう述べた。一方、来島の口調は変わらず、ただ業務的に、しかし何処かでは安田を挑発するかのように話を続ける。
「警察の事などではありません。これでも医者ですから、下手は打ちませんよ。問題は私達の活動を面白いように思っていない人々もいるということです。貴方が見つけたくらいだ。もしかすると、もうすぐそこにまで来ているかもしれません。」
来島は窓の方に目をやった。すると、安田も食い入るように窓の外を見はじめた。
「安心して下さい。今は大丈夫ですよ。」
安田は今度は顔を赤くして下を向いた。そしてそれを隠すかのように、こう述べた。
「……しかし、お節介な奴らもいるものだ。尊厳死は誰しも認められた、平等な権利とばかり思っていたがな。」
「平等な権利なんかありませんよ。そもそも尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもありませんよ。」
「むう……。」
安田は誤解していたようだ。彼らが来てくれれば、すぐに、しかも簡単にその一生を閉じれるものと思っていた。しかしどうやら事は彼が考えているほど、単純ではないようである。
「……私はあと、どれほど待てばいいのだ?」
「そうですね、調査の上に、貴方を審査しなければならない。と言っても心配いりません。少しの間だけです。」
「審査だと?」
「私達が扱っているのは“死”です。“死”はだれにでも平等で公平なものでなければなりません。その為に、私達にも会則というものが存在します。まずはその会則に違反しているかいまいか審査し、それが通った時、はじめて死ぬことが出来るのです。」
安田の中で一旦収まっていた怒りが再び蘇ってきた。彼らはまるで自分の痛みに無頓着な気がしてならなくなっていった。
「おい、神様か何かにでもなったつもりか!!人を何だと……。」
「従って頂けなければ、話はこれまでです。」
話の途中、来島は力強く割って入った。そして安田はまたしても閉口してしまったのである。彼はまたも俯き、汗をかきながら考えてごとをしているようだった。
来島もその様子を暫く眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……何故貴方はそこまでして私達に拘るのです?ガンだとは聞いていましたが、この様子だとどの道先は長くないでしょうに。」
そう言って来島は部屋を隅々まで見渡した。安田のベッドの周りには医療機器と思わしき機材が取り囲むようにして置かれていたのである。
「そうだ、もうリンパ節にまで移転していてステージⅢBだ。だが余命半年と医者から宣告されて、2年半にもなる。ここまでくればもう打つ手はないだろう。私も多くの友人をガンで亡くしているが、皆最後は体中に管を散々巻きつけられた挙句、痛み止めで意識が朦朧とした状態で、家族に別れも告げられない儘この世を去っていったよ。そんな死に方は嫌だとは思わんかね?」
「……お気持ちはわかります。しかし……それでは…何故です?」
来島は慎重に言葉を選ぶかのように答えた。
「君も医者なら分かるだろう。私以外の家族への負担、妻への普段だよ。彼女以外家族はもういない。子供もいないしな。だが、もう限界らしい。ちょうど君たち学会に連絡をする2週間前の話だよ。私は妻の介護で晩飯を食っていたら、ちょっとした不注意で味噌汁を零してね。妻がおわんをとろうとした時だ。妻の横顔が私の知っている女の横顔ではなかったんだよ。私は何かの見間違いかと思ってまじまじと凝らしたよ。するとどうだい。目に力はなくなり皺も余計に増えて、表情には生気が感じられん。妻は私という地獄の鎖に繋がれているのだよ。このままでは、彼女に生き地獄を見せ続けることになる。……思えば妻は明るく社交的な性格でな。私がこうなる前は書道の先生をしていて、それもなかなかの評判だったんだが、病気をしてからはそれもぱったりやめてしまった。だからもう一度、妻には妻の人生を生きて欲しいんだ。その為に私は邪魔なのだよ。」
見ると安田はシーツをギュッと握りしめ、全身からは汗が噴き出るように出ていた。しかしそんな安田の様子に、来島はあろうことか涼しげな笑みを見せた。
「いや、つい感動してしまいました。その意思は死を処方するに値します。」
安田はシーツをより強く握りしめた。どうしてもこの男が気に喰わないのだ。
「……では、殺してくれるのだな。」
「いや、審査はまだ続きます。心配いりません。貴方のメフィストフェレスはすぐに参上することになるでしょう。そのときまでしばしの別れです。」
そう言うと来島はトレンチコートを翻らせながら、相手の返事も聞かない儘に窓から去っていってしまった。
脚注
※1ー人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
何の目的もなしに
いつまでも生き続け
どこまでも
生を続けていく種族というものは、
客観的には滑稽だし、
主観的には
退屈なものだろうさ
ショウペンハウエル
他者に死を与える事はいかなる場合であっても、殺人である。それが大量殺人犯であろうが快楽殺人犯であろうが、病気に苦しむ親を酷く思い息の根をとめる親思いであろうが、皆等しく罰せられるのだ。しかしそうした禁忌をあえて犯し、その業苦の人生から人々を救わんとする組織がこの世には存在するのである。彼らはギリシアの「死」の神の名に肖り、「タナロジー学会」と名乗っている。来島明良(くるしま あきら)はそんな死神の使いとなり、人々に死の審判を下していた。彼らとて、誰でも無差別に死を与えているのではない。それは公平なる良心からくるものでなければならないのだ。そして来島はいつ何時もそれを忘れまいと、月に一度の墓参りを習慣としている。手を合わせ目を瞑ると、これまで彼が審判を下してきたものの顔が浮かび上がってくる。皆人生に疲れ果て、生という鎖を断ち切ろうとしたくて堪らないといった表情を浮かべていた。その表情を丁寧に思い出していくうちに、来島は背筋がピンと伸び、全身の筋肉が締まっていくのを感じる。そうした彼の姿はまるで煉獄の亡者達の魂を狩る死神のようにすら見えてしまう。そして目を開けた瞬間には、これから自分が成すべきことが不思議と鮮明に浮かび上がってくるのだ。
ある時彼がいつものように墓参りを済まし家路につこうとすると、向こうから黒い高級車がゆっくりとこちらに近づいてきた。来島はその車に幾度となく乗ったことがある。やがて車は来島の前でとまりミラーがゆっくり開くと、男の顔が出てきた。この顔とも来島は何度も突き合わせている。
「ここだったか。」
「偶然ですね。」
来島はわざと白々しくした。この男がなんの用事もなしに彼に会うことなどということはあり得ない。しかしもしかすると、という「淡い期待」も同時に抱かずにはいられなかった。
「毎月来ているんだろう。」
来島は黙っていた。が、心の中では「やっぱり」という落胆を感じてはいた。
「頼みたい事がある。」
「……仕事ですか。」
その一言には、彼の精一杯の非難でもあった。「あなたも線香の一本ぐらいあげていってはどうですか」という言葉がそこまで出ていたが、あえて押し黙った。
「それ以外にお前と私とに何がある。すぐに取りかかれ。」
そう言うと男は彼に一枚の紙切れを渡した。そこには依頼人らしき人物の名前が書かれてある。男は彼が承諾するかしないかを確認もせずに、車を出し去っていった。ひとり取り残された彼は、紙を丁寧に折って財布の中にしまい込み、早速仕事にとりかかることにした。
安田隆一にとって最早日常というものはただ死を静かに待つだけの、無意味なものとなってしまった。10年以上前に会社を定年し、多くの友人をあらゆる病気で亡くし、そして自らも2年前からガンに全身を蝕まれて生きる気力を殆ど失っていたのだ。もう待つことも疲れ果てた彼は、いつしかいかにはやく死ねるかということばかりが頭を巡るようになっていった。やがてふと、以前に友人から聞いた、違法で他人の死を専門に扱う団体に連絡をしたことを思い出す。なんでもそこに頼めば、自分の一生を簡単に終わらせてくれるらしい。しかし待てど暮らせど今日までなんの音沙汰もない。
「そんなうまい話があるわけないか。」
彼はそんな独り言を漏らしため息をついた。その時である。窓のあたりから冷たい風が吹いているのを感じた。(可笑しいな、妻が締めていったはずなのだが……。)虚ろな眼差しで庭の窓に目を向ける。すると窓は開け放たれているばかりか、そこには季節外れにもトレンチコートを着た、若く背の高い男が立っていた。安田は何者?と思うと同時にもしや!とも思った。そして安田が自分に気がついた事を知ると、男は静かに口を開いた。
「遅くなって申し訳ありません。日本タナロジー学会から参りました、代理人(エージェント)の来島です。
安田にはそれだけで一切が分かった。ついに自分を殺してくれる悪魔がこの場に舞い降りてきてくれたのだ。安田はやっとかという疲れきった表情を浮かべた。
「随分遅かったじゃないか。」
「来るには来ていましたよ。」
この一言に安田は腹を立てた。幾ら向こうにとっては仕事だとはいえ、なんだか自分の生き死にをこの若造が安く見積もっているように思われてならなかったのだ。彼の聞きやすく、透き通った声の調子もかえってそうした感情を助長させた。
「何だと!どういうことだ!!」
「落ち着いて下さい。私は何も貴方を怒らせに来たわけではありません。」
「当たり前だ!」
来島は落ち着き払って、安田の怒りを鎮めようとした。だがその様子が更に彼を苛立たせるのだ。
「私たちにも事情というものがあるのです。それに貴方だって、誰かに自分が死ぬところを止められるのは困るのでしょう。」
「こんな老いぼれの命を誰が気にするんだ!保険会社か!!」
こうした安田の態度に来島は呆れながらも、これから自分たちが社会的にどのような事をやろうとしているのかを説明していく。
「……いいですか、私たちがやろうとしていることは立派な犯罪です。それは刑法202条(※1)にも定められています。捕まれば、私は一生檻の中でしょうし、貴方だって死ぬ前に余計な汚名がつくことになるんですよ。」
これには流石の安田も狼狽した。が、彼にとって法の存在など死の前では取るに足らない事は変わりなかった。
「……では、その調査とやらが終わったらすぐ殺してくれ。その方が君も警察に捕まることもあるまい。」
何かを圧し殺すかのようにこう述べた。一方、来島の口調は変わらず、ただ業務的に、しかし何処かでは安田を挑発するかのように話を続ける。
「警察の事などではありません。これでも医者ですから、下手は打ちませんよ。問題は私達の活動を面白いように思っていない人々もいるということです。貴方が見つけたくらいだ。もしかすると、もうすぐそこにまで来ているかもしれません。」
来島は窓の方に目をやった。すると、安田も食い入るように窓の外を見はじめた。
「安心して下さい。今は大丈夫ですよ。」
安田は今度は顔を赤くして下を向いた。そしてそれを隠すかのように、こう述べた。
「……しかし、お節介な奴らもいるものだ。尊厳死は誰しも認められた、平等な権利とばかり思っていたがな。」
「平等な権利なんかありませんよ。そもそも尊厳死というのは患者の希望で延命治療を中止することしか意味しません。これからやることはあなたにとっては自殺、私にとっては殺人、それ以上でも以下でもありませんよ。」
「むう……。」
安田は誤解していたようだ。彼らが来てくれれば、すぐに、しかも簡単にその一生を閉じれるものと思っていた。しかしどうやら事は彼が考えているほど、単純ではないようである。
「……私はあと、どれほど待てばいいのだ?」
「そうですね、調査の上に、貴方を審査しなければならない。と言っても心配いりません。少しの間だけです。」
「審査だと?」
「私達が扱っているのは“死”です。“死”はだれにでも平等で公平なものでなければなりません。その為に、私達にも会則というものが存在します。まずはその会則に違反しているかいまいか審査し、それが通った時、はじめて死ぬことが出来るのです。」
安田の中で一旦収まっていた怒りが再び蘇ってきた。彼らはまるで自分の痛みに無頓着な気がしてならなくなっていった。
「おい、神様か何かにでもなったつもりか!!人を何だと……。」
「従って頂けなければ、話はこれまでです。」
話の途中、来島は力強く割って入った。そして安田はまたしても閉口してしまったのである。彼はまたも俯き、汗をかきながら考えてごとをしているようだった。
来島もその様子を暫く眺めてはいたが、やがて静かに口を開いた。
「……何故貴方はそこまでして私達に拘るのです?ガンだとは聞いていましたが、この様子だとどの道先は長くないでしょうに。」
そう言って来島は部屋を隅々まで見渡した。安田のベッドの周りには医療機器と思わしき機材が取り囲むようにして置かれていたのである。
「そうだ、もうリンパ節にまで移転していてステージⅢBだ。だが余命半年と医者から宣告されて、2年半にもなる。ここまでくればもう打つ手はないだろう。私も多くの友人をガンで亡くしているが、皆最後は体中に管を散々巻きつけられた挙句、痛み止めで意識が朦朧とした状態で、家族に別れも告げられない儘この世を去っていったよ。そんな死に方は嫌だとは思わんかね?」
「……お気持ちはわかります。しかし……それでは…何故です?」
来島は慎重に言葉を選ぶかのように答えた。
「君も医者なら分かるだろう。私以外の家族への負担、妻への普段だよ。彼女以外家族はもういない。子供もいないしな。だが、もう限界らしい。ちょうど君たち学会に連絡をする2週間前の話だよ。私は妻の介護で晩飯を食っていたら、ちょっとした不注意で味噌汁を零してね。妻がおわんをとろうとした時だ。妻の横顔が私の知っている女の横顔ではなかったんだよ。私は何かの見間違いかと思ってまじまじと凝らしたよ。するとどうだい。目に力はなくなり皺も余計に増えて、表情には生気が感じられん。妻は私という地獄の鎖に繋がれているのだよ。このままでは、彼女に生き地獄を見せ続けることになる。……思えば妻は明るく社交的な性格でな。私がこうなる前は書道の先生をしていて、それもなかなかの評判だったんだが、病気をしてからはそれもぱったりやめてしまった。だからもう一度、妻には妻の人生を生きて欲しいんだ。その為に私は邪魔なのだよ。」
見ると安田はシーツをギュッと握りしめ、全身からは汗が噴き出るように出ていた。しかしそんな安田の様子に、来島はあろうことか涼しげな笑みを見せた。
「いや、つい感動してしまいました。その意思は死を処方するに値します。」
安田はシーツをより強く握りしめた。どうしてもこの男が気に喰わないのだ。
「……では、殺してくれるのだな。」
「いや、審査はまだ続きます。心配いりません。貴方のメフィストフェレスはすぐに参上することになるでしょう。そのときまでしばしの別れです。」
そう言うと来島はトレンチコートを翻らせながら、相手の返事も聞かない儘に窓から去っていってしまった。
脚注
※1ー人を教唆し、若しくは幇助(ほうじょ)して自殺させ、又は人をその属託を受け、若しくはその承諾を得て殺した者は6ヶ月以上7年以下の懲役又は禁錮に処する。
2014年5月31日土曜日
煙の時代
「でよぉ、お前の標準語なんとかならんがかぁ。」
慣れないビールの味に酔ってテレビをボーっと見ていた僕に、突然武志はこんな事を聞いてきた。これは地元に帰ってくるとよく言われる台詞である。というのも、大体僕のように、高知県を離れて他の県に行った友達は、向こうの方言がうつっても帰ってくれば土佐弁を喋る、或いは意地を張って向こうの方言を喋らないため、方言がうつらないまま帰ってくる。しかし僕の場合はその逆で、元々土佐弁が好きではない事、高知にいた時の自分が嫌いな事から、僕は頑として高知に帰っても標準語を話している。だから高知の友達からは奇妙がられるのだ。
「ごめん、どうにもなおらないんだ。土佐弁を話すとかえって変な感じするし。」
「まぁ山野君は大学行ってからずっと関東ながやし、仕方ないがやない。」
奥の間から武志の奥さんが出てきて、机の上の潰されたビール缶を片付けながらあっけらかんとこういった。
「そんなもんかや。」
武志は首を傾けながらビールに手をやった。僕は苦笑いで、
「長い間向こうにいるからね。」
とだけ答えた。すると武志は何か思い出したように、こうつけ足した。
「まぁな。昔はこうしてお前と酒を飲むとか考えられんかったなぁ。」
武志はしみじみと下を向きながら話を続けた。
「高校の時の俺って、ドラえもんのジャイアンみたいな存在やったやん。お前の事も馬鹿にしちょったし、先生とか大人も舐めちょった。けどこうして働きだして、自分が馬鹿にしてきちょったもんがすごかったがやなぁって事が分かったし、それにあんな事したに、こうして遊べるっていうのは有難いにゃあ。新しい友達もえいけんど、やっぱり古い友達がえい。」
こう語る彼は、昔を懐かしがるようでもあり、悔いるようでもあり、またこの場そのものを喜んでいるようでもあった。そして僕も同じ気持ちである。僕は高校生の頃を思い出していた。武志が語るように、昔の彼は乱暴者で機嫌が悪いと、なんにでもつっかかっていた。そしてクラスの中でも端の方の席にいた僕は、しょっちゅう彼の鬱憤のはけ口となっていた。ところが時が経ち成人を迎えた夜、武志は僕によそよそしく話しかけてきた。僕もどうしていいか分からず、どぎまぎしながらもそれに応じた。こうして僕と武志の付き合いははじまり、今でもこうして酒を酌み交わす仲となった。僕の胸ぐらを掴む武志。それに怯えながらも、彼の手を服から剥がそうとする僕。その過去があってこれ。そう考えるとやっぱり僕も僕で、滑稽で恥ずかしくもあり、心地良い。だから僕も僕の誠意をもって、彼に同意を示した。
「正直僕は古い友達だからこそやりづらいところがあるんだ。」
「そうなが。」
武志は少し意外そうな顔をした。
「うん。俺高知にいた時の自分って嫌いなんだよね。そして高知の友達はその時の僕を知ってるから、なんだかやりづらいなって思うこともあるんだよ。でも、こうしてお酒飲みながら昔の事を話すのも、いいなって思う。」
今度はウンウンと頷きながらビールを口に含み、
「まぁ、今日ははじめてお前がうちに遊びに来てくれた日やからな。ゆっくりしていってくれ。」
と言った。そして彼は奥さんにお酒のつまみを家中に響く声で催促していた。僕も、そんな武志の様子にホッと胸を撫で下ろしながら煙草に火をつける。そして思いっきり煙を肺に詰め込んで、ゆっくりと吐く。やがて煙は周りの空気に溶け込んでいった。
慣れないビールの味に酔ってテレビをボーっと見ていた僕に、突然武志はこんな事を聞いてきた。これは地元に帰ってくるとよく言われる台詞である。というのも、大体僕のように、高知県を離れて他の県に行った友達は、向こうの方言がうつっても帰ってくれば土佐弁を喋る、或いは意地を張って向こうの方言を喋らないため、方言がうつらないまま帰ってくる。しかし僕の場合はその逆で、元々土佐弁が好きではない事、高知にいた時の自分が嫌いな事から、僕は頑として高知に帰っても標準語を話している。だから高知の友達からは奇妙がられるのだ。
「ごめん、どうにもなおらないんだ。土佐弁を話すとかえって変な感じするし。」
「まぁ山野君は大学行ってからずっと関東ながやし、仕方ないがやない。」
奥の間から武志の奥さんが出てきて、机の上の潰されたビール缶を片付けながらあっけらかんとこういった。
「そんなもんかや。」
武志は首を傾けながらビールに手をやった。僕は苦笑いで、
「長い間向こうにいるからね。」
とだけ答えた。すると武志は何か思い出したように、こうつけ足した。
「まぁな。昔はこうしてお前と酒を飲むとか考えられんかったなぁ。」
武志はしみじみと下を向きながら話を続けた。
「高校の時の俺って、ドラえもんのジャイアンみたいな存在やったやん。お前の事も馬鹿にしちょったし、先生とか大人も舐めちょった。けどこうして働きだして、自分が馬鹿にしてきちょったもんがすごかったがやなぁって事が分かったし、それにあんな事したに、こうして遊べるっていうのは有難いにゃあ。新しい友達もえいけんど、やっぱり古い友達がえい。」
こう語る彼は、昔を懐かしがるようでもあり、悔いるようでもあり、またこの場そのものを喜んでいるようでもあった。そして僕も同じ気持ちである。僕は高校生の頃を思い出していた。武志が語るように、昔の彼は乱暴者で機嫌が悪いと、なんにでもつっかかっていた。そしてクラスの中でも端の方の席にいた僕は、しょっちゅう彼の鬱憤のはけ口となっていた。ところが時が経ち成人を迎えた夜、武志は僕によそよそしく話しかけてきた。僕もどうしていいか分からず、どぎまぎしながらもそれに応じた。こうして僕と武志の付き合いははじまり、今でもこうして酒を酌み交わす仲となった。僕の胸ぐらを掴む武志。それに怯えながらも、彼の手を服から剥がそうとする僕。その過去があってこれ。そう考えるとやっぱり僕も僕で、滑稽で恥ずかしくもあり、心地良い。だから僕も僕の誠意をもって、彼に同意を示した。
「正直僕は古い友達だからこそやりづらいところがあるんだ。」
「そうなが。」
武志は少し意外そうな顔をした。
「うん。俺高知にいた時の自分って嫌いなんだよね。そして高知の友達はその時の僕を知ってるから、なんだかやりづらいなって思うこともあるんだよ。でも、こうしてお酒飲みながら昔の事を話すのも、いいなって思う。」
今度はウンウンと頷きながらビールを口に含み、
「まぁ、今日ははじめてお前がうちに遊びに来てくれた日やからな。ゆっくりしていってくれ。」
と言った。そして彼は奥さんにお酒のつまみを家中に響く声で催促していた。僕も、そんな武志の様子にホッと胸を撫で下ろしながら煙草に火をつける。そして思いっきり煙を肺に詰め込んで、ゆっくりと吐く。やがて煙は周りの空気に溶け込んでいった。
十二年目の再会
あれは九月の、まだ残暑が続いていた頃のことでした。その日、ぼくは中学時代の同級生だった恵子ちゃんと、姫路駅近くのロータリーで待ち合わせをしていました。恵子ちゃんはもともとはぼくと同じ姫路の人間だったのですが、両親の仕事と彼女の進学をきっかけに東京へ引越し、それから約十二年間疎遠になっていました。ですがつい先日、その恵子ちゃんから突然連絡がきて、今度姫路に行く用事が出来たから久し振りに遊ぼうという事になったのです。
しかしぼくは彼女と再会することを楽しみにしている一方で、一体何を話したらいいのだろうか、何処に行けばいいのだろうか、なんと声をかければいいのだろうかという、不安や緊張も感じていました。そうした事を考えていたためか、ぼくは待ち合わせ時間の四十分以上も前にロータリーに着いてしまいました。当然彼女はまだ来ているわけがありません。
そこでぼくは気を落ち着けるという意味も込めて、近くのCDショップに足を運ぶことにしました。そこは姫路駅から五分くらいのところにあり、学校の帰りに恵子ちゃんとよく通った思い出の場所でもありました。店内に入ると、そこには数人の学生らしき人々と、ぼくと同年代ぐらいの女性が一人と、店員さんしかいませんでした。なので他の人を気にすることなく、ぼくは新商品をチェックすることができました。ですが、ここでまたしてもある不安がぼくの脳裏をよぎりました。音楽好きのぼくは、CDショップやレンタルビデオ店に入ると時間が経つのを忘れて、音楽の視聴に没頭してしまう傾向がありました。結果、友達との待ち合わせ時間に遅れてしまうのです。この日もまずいなとは思っていました。ですがどうしても気持ちを落ち着けたいぼくは、ヘッドフォンを耳に当てて視聴することにしたのです。そしてプレイヤーのスイッチを入れると、ヘッドフォンからはポップなメロディラインが聞こえてきました。こうしてぼくは待ち合わせの事などすっかりわすれて、音楽の波にさらわれていってしまったのです。
しかしさらわれて戻ってきた時にはもう手遅れでした。ぼくが慌てて携帯電話のディスプレイを確認すると、約束時間を一七分も過ぎてしまっていたのです。ぼくは思わず、
「あかん、遅刻や!」
と自分でもびっくりするぐらいの声を出してしまいました。すると店内のどこからか、
「やばっ、遅れてるやん!!」
という女性の声が聞こえてきました。それはぼくが入店した時からいた、ぼくと同年代ぐらいの、あの女性でした。彼女は手に持っていた音楽雑誌をおいて急いで何処かへ消えていってしまいました。その光景に気をとられていたぼくは、我に返ると彼女につづくかたちで店内を出ていきました。
ロータリーに着くと、彼女を見分ける自信のなかったぼくは携帯電話を取り出し、彼女に連絡しました。
「もしもし、今どのあたり?」
「ついてんで、タクシーとまってるところ。」
「タクシー止まってるっていっぱい……。」
この会話の途中、二人は目をあわせて噴き出してしまいました。何故なら、先程CDショップを慌てて出ていった、あの女性が携帯電話を片手に話していたからに他ならなかったからです。
しかしぼくは彼女と再会することを楽しみにしている一方で、一体何を話したらいいのだろうか、何処に行けばいいのだろうか、なんと声をかければいいのだろうかという、不安や緊張も感じていました。そうした事を考えていたためか、ぼくは待ち合わせ時間の四十分以上も前にロータリーに着いてしまいました。当然彼女はまだ来ているわけがありません。
そこでぼくは気を落ち着けるという意味も込めて、近くのCDショップに足を運ぶことにしました。そこは姫路駅から五分くらいのところにあり、学校の帰りに恵子ちゃんとよく通った思い出の場所でもありました。店内に入ると、そこには数人の学生らしき人々と、ぼくと同年代ぐらいの女性が一人と、店員さんしかいませんでした。なので他の人を気にすることなく、ぼくは新商品をチェックすることができました。ですが、ここでまたしてもある不安がぼくの脳裏をよぎりました。音楽好きのぼくは、CDショップやレンタルビデオ店に入ると時間が経つのを忘れて、音楽の視聴に没頭してしまう傾向がありました。結果、友達との待ち合わせ時間に遅れてしまうのです。この日もまずいなとは思っていました。ですがどうしても気持ちを落ち着けたいぼくは、ヘッドフォンを耳に当てて視聴することにしたのです。そしてプレイヤーのスイッチを入れると、ヘッドフォンからはポップなメロディラインが聞こえてきました。こうしてぼくは待ち合わせの事などすっかりわすれて、音楽の波にさらわれていってしまったのです。
しかしさらわれて戻ってきた時にはもう手遅れでした。ぼくが慌てて携帯電話のディスプレイを確認すると、約束時間を一七分も過ぎてしまっていたのです。ぼくは思わず、
「あかん、遅刻や!」
と自分でもびっくりするぐらいの声を出してしまいました。すると店内のどこからか、
「やばっ、遅れてるやん!!」
という女性の声が聞こえてきました。それはぼくが入店した時からいた、ぼくと同年代ぐらいの、あの女性でした。彼女は手に持っていた音楽雑誌をおいて急いで何処かへ消えていってしまいました。その光景に気をとられていたぼくは、我に返ると彼女につづくかたちで店内を出ていきました。
ロータリーに着くと、彼女を見分ける自信のなかったぼくは携帯電話を取り出し、彼女に連絡しました。
「もしもし、今どのあたり?」
「ついてんで、タクシーとまってるところ。」
「タクシー止まってるっていっぱい……。」
この会話の途中、二人は目をあわせて噴き出してしまいました。何故なら、先程CDショップを慌てて出ていった、あの女性が携帯電話を片手に話していたからに他ならなかったからです。
たんぽぽ
冬の寒さが残る3月の出来事です。その晩、息が苦しい中、私は行く宛もなく夜の酒場を徘徊しておりました。街のネオンは人々の心を吸い寄せるように怪しく光っておりました。私もその中の一人で、その妖艶な明かりを求めて右へフラフラ左へフラフラと、まるで魂の抜けた屍人のようだったことでしょう。
そんな私の耳に突然、大きな怒鳴り声が何処からともなく響いてきました。私が声の方へ目を向けると、そこには非常に体格のいい中年のスーツを着た男が、若い新入社員と思われる若い別の男を罵っていました。なんと言っていたのかのは聞き取れませんでしたが、私の耳には確かにこう聞こえました。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
その心の言葉に私はたまらなくなり、逃げるようにその場を立ち去りました。苦しかった息は更に酸素を吸うことが困難になり、私を苦しめます。そしてそんな中私は心のなかで、「私は間違っていたのだろうか。私の考える文学は間違っていたのだろうか、」と何度も自分に問いかけていました。
私は実家に帰郷する迄は、関東の方でひっそりとアルバイトをしながら生計を立てていました。朝は六時に起き職場へと向かい、帰ってくるなりすぐにパソコンを立ち上げ小説を書く。そして小説をある程度書き上げるとパソコンを閉じて読書を少しして寝る。こんな生活を続けておりました。ですが、前日のちょっとした無理が祟ったのでしょう。ある日私は職場で倒れてしまいその儘入院。すぐに母は実家から駆けつけてくれました。やがて診察は終わり、診察室で診断の結果を聞くこととなりました。
「それで先生、この子の病気はなんなんでしょうか。」
この母の一見、落ち着いた口調の裏には、周りへの体裁を気にしながらも私の体が気になってしょうがないという強い不安があることが私にはすぐに分かりました。ですが、そんなことを知ってか知らずか、この外来医師は顔色をひとつ変えず、まるでニュースの記事でも読むかのようにこう私たちに告げました。
「心配いりません。軽い過労のようなものです。点滴をすればすぐに良くなりますよ。あと睡眠も足りていないようだから、今日明日は安静にすることをお薦めします。」
その言語を聞くと、母はほっと胸をなで下ろしていました。私も当然内心穏やかではありませんでしたから、この言葉には幾分か救われた心持ちがしました。ですが、その翌々日からが問題でした。私はその日以来、仕事に行くと急に気分が悪くなり、二、三時間しかその場にいられないのです。私は再び病院を訪れ、診察をしてもらいました。医師は私を仕事によるうつ病と診断し、長期の休暇を提案しました。私はこの診断に反対しました。私は実家に帰ることを恐れていたのです。実家の父や母は、私が文学の道を歩もうとしていることを一切知りません。うつ病と診断され、実家に帰れば生活は制限され、活動もやりづらくなってしまうことでしょう。これが私にとって、どれ程の苦痛なことでしょう。そう考えた私は両親に連絡する前に、大学時代の友人であるNを呼び出し相談してみることにしたのです。
「それで、実家に帰りたくないからってこっちに残ってどうやって生活するつもりだ。」
私の部屋に入り、腰を落ち着かせたNはこのような質問を向けてきました。この時の私の顔といったらさぞ当惑していたことでしょう。私は下を向き、どこを見でもなく、ただそこにある何かを見ていました。
「でも帰りたくないんだ。親父やおふくろは、俺が小説を書いていると知ったら、どう思うか……。」
Nは呆れた顔をしてポケットから煙草を取り出しました。
「そら……、お前の気持ちも分かるよ。確かに、ここにはお前のやっていることを理解してくれている友達も俺を含めて多いだろう。高知に帰っても、対立物のなんたらだ、否定の否定だらを分かってくれる人もおらんかもなぁ。でもな、何を言っても人間体が資本だぞ。無理して働くわけにもいかねぇだろ。現実は、お前が考えている以上にシビアだよ。」
「………。」
「まぁ、それにソコソコ書くことも出来ないってこともないだろう。しっかり養生することを俺も勧める。」
「でも書きづらいさ。それに、今まで俺がこうして文学に取り組めてきたのはNとか皆がいたからだと思うんだ。環境だって違う。」
「だからなんだ?」
「いや、だからね、環境が違うんだ。」
この時、私は既に少し熱くなっていました。
「いいか、環境が違うってことは生活スタイルを変えなきゃならない。そうすると、高知は田舎だ。田舎に行けば、田舎的な暮らしが待っている。田舎的な暮らしは都会的な暮らしに比べて楽だ。習慣的に培われるものが少ないからね。すると、今まで培ってきたものは意識していてもだんだんと削がれ出す。分かる。ここが問題なんだよ。」
すると、Nは熱くなっている私の答弁に対し、冷静に、冷たくこう返してきました。
「でも生きることに関してはそう大した問題じゃないだろ。俺達は生きている。俺から言わせてもらえればこっちの方が大きな問題だ。死んでも小説がかけるなら話は別かもしれんけどな。」
「……。」
私はもうどうしていいのか、分からなくなっていました。彼の言っていることはもっともな話です。ですが、自分の命を文学に捧げたいと考えたことのある私にとっては、己の言い分も一里あるとも考えていました。ですから尚更分からないのです。私がこうして悩んでいると、Nは私にとどめの一言を告げました。
「しっかり体治して、また出てくればいいじゃないか。俺も待ってる。」
そう言って彼は私の肩を叩いてくれました。私は暫く考え、いえ、恐らくぼんやりとその言語を飲み込んだ、と言ったほうが正しいでしょう。そして理解した後、ゆっくりと頷き実家の両親に電話をしました。その電話をしている最中です。突然、私はそれまで我慢していたものが心の底から一気に込み上げてくるのを感じ、気がつけば目から涙が一粒二粒こぼれました。ですが何も、単純に実家に帰ることがそこまで嫌で泣いたのではありません。この涙は文学を志す者として、ある程度実力をつけるまでは実家に帰らない腹積もりでしたのに、自身の未熟さからくる病気によって帰らなければならないことを恥じて泣いているのです。また、私は自分の夢がここで途絶えたような心持ちも、この時同時に感じていました。それらが爆発し一滴の涙となり、やがて一滴は虚しい嗚咽となって私の頬を伝っていきました。
その一週間の後、私は六畳一室のワンルームマンションを綺麗サッパリと片付け、Nをはじめとした友人たちと別れの挨拶を告げて高知に戻ってきました。高知に戻ってきて、私の生活は実に退屈なものになりました。インターネットも接続していない我が家では小説を更新する気にはなれず、(私は出来上がった小説は必ずブログにアップすることが習慣としていました。)読書をするか、或いはDVDで映画を見るかをして毎日を過ごしていました。
そんなある日、私と家族が夕食を食べている最中、父からこんな質問を受けました。
「それで、お前の将来設計としてこれからどうするがで。」
私は躊躇することなく、こう言い放ちました。
「暫くは家にいて、一年間お金を貯めて関東に戻るつもりでいるうだけど。」
こう私が行った瞬間、父の顔は少し歪みました。それは私が子供の頃から嫌いな父の表情でした。
「お前の考えていることは分からん、関東へ戻って何がしたい。」
私は当惑しました。父に小説の勉強をしたいと素直に述べてそれを受け入れてもらえないと考えていた私は、この質問に対し、嘘をつくことにしました。
「向こうで働きたいんだ。高知では賃金が安いし、職は少ない。関東は高知に比べれば仕事があるだろうし、賃金も高い。」
父は考え込むフリをしていました。フリなのです。思えば父は実家に帰ってきた私をチラチラと見ていて、「こいつは何を考えているのだ」と思案していたことでしょう。父は大変に漠然とですが、私の夢を見透かし、常々気に入らないと思っていたことでしょう。私は父の詰問から逃れられないことをここで悟ったのです。
「どうも可笑しいにゃー。そんなん思ってないやろう。お前は関東へ行って何がしたい。」
私は下を向いて、何も答えられないようになってしまいました。父を説得することをはじめから諦めていた私は何か言わなければと思いつつも、言葉が浮かんでこないのです。そんな私を見かねたのか、父は決定的な一言を私に言ってきました。
「小説家になりたいがか?」
私は一度コクリと頷きました。父は深くため息をついて、一言。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
私は父の顔をまっすぐ見ていました。同じ顔をしていました。父の顔はそれまで私の夢を否定してきた多くの人々と同じ顔をしていました。私はじっと見ていた母の顔も見ていました。母もやはり同じような顔をしており、私を哀れんでいるようにも見えました。父は更に独り言を漏らすようにこう続けました。
「昔はそれで良かったかもしれん。昔は人が困っちょったら助けれた時代やき。でも今はそうはいかんぞ。まして生活の基盤がしっかりできちょらんお前に、小説なんか書ける訳ないやか。考えてみよ。大学にでも行って世間をみてきたら親の気持ちが少しは分かると思うたけんど、なんも見てこんかったか。まぁええわ。出て行くんやったら本当は大学の時にかかったお金を返してもらいたいけんど、ええわ、好きにせぇ。」
そう捨て台詞を吐くと父は席をたち、その儘自分の部屋へ入っていきました。残された母は黙って涙を流していました。そして私はその場に一秒でもはやく去りたい気持ちで席をたち、家を出てフラフラと街へ出かけたのです。
私は間違っていたのでしょうか。もう一切が分からなくなっていました。息はだんだんと苦しくなってくる一方です。頭に思い浮かぶのは、関東の慣れ親しんだ街並みやNをはじめとした友人たちの顔ばかり。ですが今の私は一人ぼっち。誰も私を知らないのです。こちらの友人も知りません。父も私のことを知りません。母ですら私のことを知らないのです。私は深い孤独に全身を貫かれたような気分になってきました。ああ、足ももつれてきました。上手く立つことが出来なくなった私は、アスファルトめがけて体を叩きつけられました。もうめちゃくちゃです。何がなんだか一切が分かりません。どうにでもなってしまえ。そう思った時でした。私の転んたアスファルトの先には一輪の、もう既に白い種をつけたたんぽぽが咲いていました。冬の冷たさが残っているとは言え、春は春です。咲いていたとしても全く可笑しくありません。ですが、そのなんも変哲もないたんぽぽに私は心奪われていました。硬いアスファルトに力強く根づき堂々と孤独に咲いているそれは、今は微弱でも、いつかはコンクリートを貫く程の力強い生命力を持った種をこの瞬間に飛ばしています。この種たちは他の兄弟達と別れ、暫くは寂しい思いをすることでしょう。ですが、孤独になろうともこの種は成長し、やがては母親と同じように新たな生命を風に運ばせる日がくることでしょう。そう考えていくうちに、私の呼吸は軽くなり、すんなりと立ち上がることできました。この時このたんぽぽは私の中にも、この力強い生命の種をわけてくれたのです。私はこれまでの足取りとは違い、しっかりと地面に踵をつけて暗闇の中へと進んで行きました。
そんな私の耳に突然、大きな怒鳴り声が何処からともなく響いてきました。私が声の方へ目を向けると、そこには非常に体格のいい中年のスーツを着た男が、若い新入社員と思われる若い別の男を罵っていました。なんと言っていたのかのは聞き取れませんでしたが、私の耳には確かにこう聞こえました。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
その心の言葉に私はたまらなくなり、逃げるようにその場を立ち去りました。苦しかった息は更に酸素を吸うことが困難になり、私を苦しめます。そしてそんな中私は心のなかで、「私は間違っていたのだろうか。私の考える文学は間違っていたのだろうか、」と何度も自分に問いかけていました。
私は実家に帰郷する迄は、関東の方でひっそりとアルバイトをしながら生計を立てていました。朝は六時に起き職場へと向かい、帰ってくるなりすぐにパソコンを立ち上げ小説を書く。そして小説をある程度書き上げるとパソコンを閉じて読書を少しして寝る。こんな生活を続けておりました。ですが、前日のちょっとした無理が祟ったのでしょう。ある日私は職場で倒れてしまいその儘入院。すぐに母は実家から駆けつけてくれました。やがて診察は終わり、診察室で診断の結果を聞くこととなりました。
「それで先生、この子の病気はなんなんでしょうか。」
この母の一見、落ち着いた口調の裏には、周りへの体裁を気にしながらも私の体が気になってしょうがないという強い不安があることが私にはすぐに分かりました。ですが、そんなことを知ってか知らずか、この外来医師は顔色をひとつ変えず、まるでニュースの記事でも読むかのようにこう私たちに告げました。
「心配いりません。軽い過労のようなものです。点滴をすればすぐに良くなりますよ。あと睡眠も足りていないようだから、今日明日は安静にすることをお薦めします。」
その言語を聞くと、母はほっと胸をなで下ろしていました。私も当然内心穏やかではありませんでしたから、この言葉には幾分か救われた心持ちがしました。ですが、その翌々日からが問題でした。私はその日以来、仕事に行くと急に気分が悪くなり、二、三時間しかその場にいられないのです。私は再び病院を訪れ、診察をしてもらいました。医師は私を仕事によるうつ病と診断し、長期の休暇を提案しました。私はこの診断に反対しました。私は実家に帰ることを恐れていたのです。実家の父や母は、私が文学の道を歩もうとしていることを一切知りません。うつ病と診断され、実家に帰れば生活は制限され、活動もやりづらくなってしまうことでしょう。これが私にとって、どれ程の苦痛なことでしょう。そう考えた私は両親に連絡する前に、大学時代の友人であるNを呼び出し相談してみることにしたのです。
「それで、実家に帰りたくないからってこっちに残ってどうやって生活するつもりだ。」
私の部屋に入り、腰を落ち着かせたNはこのような質問を向けてきました。この時の私の顔といったらさぞ当惑していたことでしょう。私は下を向き、どこを見でもなく、ただそこにある何かを見ていました。
「でも帰りたくないんだ。親父やおふくろは、俺が小説を書いていると知ったら、どう思うか……。」
Nは呆れた顔をしてポケットから煙草を取り出しました。
「そら……、お前の気持ちも分かるよ。確かに、ここにはお前のやっていることを理解してくれている友達も俺を含めて多いだろう。高知に帰っても、対立物のなんたらだ、否定の否定だらを分かってくれる人もおらんかもなぁ。でもな、何を言っても人間体が資本だぞ。無理して働くわけにもいかねぇだろ。現実は、お前が考えている以上にシビアだよ。」
「………。」
「まぁ、それにソコソコ書くことも出来ないってこともないだろう。しっかり養生することを俺も勧める。」
「でも書きづらいさ。それに、今まで俺がこうして文学に取り組めてきたのはNとか皆がいたからだと思うんだ。環境だって違う。」
「だからなんだ?」
「いや、だからね、環境が違うんだ。」
この時、私は既に少し熱くなっていました。
「いいか、環境が違うってことは生活スタイルを変えなきゃならない。そうすると、高知は田舎だ。田舎に行けば、田舎的な暮らしが待っている。田舎的な暮らしは都会的な暮らしに比べて楽だ。習慣的に培われるものが少ないからね。すると、今まで培ってきたものは意識していてもだんだんと削がれ出す。分かる。ここが問題なんだよ。」
すると、Nは熱くなっている私の答弁に対し、冷静に、冷たくこう返してきました。
「でも生きることに関してはそう大した問題じゃないだろ。俺達は生きている。俺から言わせてもらえればこっちの方が大きな問題だ。死んでも小説がかけるなら話は別かもしれんけどな。」
「……。」
私はもうどうしていいのか、分からなくなっていました。彼の言っていることはもっともな話です。ですが、自分の命を文学に捧げたいと考えたことのある私にとっては、己の言い分も一里あるとも考えていました。ですから尚更分からないのです。私がこうして悩んでいると、Nは私にとどめの一言を告げました。
「しっかり体治して、また出てくればいいじゃないか。俺も待ってる。」
そう言って彼は私の肩を叩いてくれました。私は暫く考え、いえ、恐らくぼんやりとその言語を飲み込んだ、と言ったほうが正しいでしょう。そして理解した後、ゆっくりと頷き実家の両親に電話をしました。その電話をしている最中です。突然、私はそれまで我慢していたものが心の底から一気に込み上げてくるのを感じ、気がつけば目から涙が一粒二粒こぼれました。ですが何も、単純に実家に帰ることがそこまで嫌で泣いたのではありません。この涙は文学を志す者として、ある程度実力をつけるまでは実家に帰らない腹積もりでしたのに、自身の未熟さからくる病気によって帰らなければならないことを恥じて泣いているのです。また、私は自分の夢がここで途絶えたような心持ちも、この時同時に感じていました。それらが爆発し一滴の涙となり、やがて一滴は虚しい嗚咽となって私の頬を伝っていきました。
その一週間の後、私は六畳一室のワンルームマンションを綺麗サッパリと片付け、Nをはじめとした友人たちと別れの挨拶を告げて高知に戻ってきました。高知に戻ってきて、私の生活は実に退屈なものになりました。インターネットも接続していない我が家では小説を更新する気にはなれず、(私は出来上がった小説は必ずブログにアップすることが習慣としていました。)読書をするか、或いはDVDで映画を見るかをして毎日を過ごしていました。
そんなある日、私と家族が夕食を食べている最中、父からこんな質問を受けました。
「それで、お前の将来設計としてこれからどうするがで。」
私は躊躇することなく、こう言い放ちました。
「暫くは家にいて、一年間お金を貯めて関東に戻るつもりでいるうだけど。」
こう私が行った瞬間、父の顔は少し歪みました。それは私が子供の頃から嫌いな父の表情でした。
「お前の考えていることは分からん、関東へ戻って何がしたい。」
私は当惑しました。父に小説の勉強をしたいと素直に述べてそれを受け入れてもらえないと考えていた私は、この質問に対し、嘘をつくことにしました。
「向こうで働きたいんだ。高知では賃金が安いし、職は少ない。関東は高知に比べれば仕事があるだろうし、賃金も高い。」
父は考え込むフリをしていました。フリなのです。思えば父は実家に帰ってきた私をチラチラと見ていて、「こいつは何を考えているのだ」と思案していたことでしょう。父は大変に漠然とですが、私の夢を見透かし、常々気に入らないと思っていたことでしょう。私は父の詰問から逃れられないことをここで悟ったのです。
「どうも可笑しいにゃー。そんなん思ってないやろう。お前は関東へ行って何がしたい。」
私は下を向いて、何も答えられないようになってしまいました。父を説得することをはじめから諦めていた私は何か言わなければと思いつつも、言葉が浮かんでこないのです。そんな私を見かねたのか、父は決定的な一言を私に言ってきました。
「小説家になりたいがか?」
私は一度コクリと頷きました。父は深くため息をついて、一言。
「お前は誰がどう見ても間違っちゅう。」
私は父の顔をまっすぐ見ていました。同じ顔をしていました。父の顔はそれまで私の夢を否定してきた多くの人々と同じ顔をしていました。私はじっと見ていた母の顔も見ていました。母もやはり同じような顔をしており、私を哀れんでいるようにも見えました。父は更に独り言を漏らすようにこう続けました。
「昔はそれで良かったかもしれん。昔は人が困っちょったら助けれた時代やき。でも今はそうはいかんぞ。まして生活の基盤がしっかりできちょらんお前に、小説なんか書ける訳ないやか。考えてみよ。大学にでも行って世間をみてきたら親の気持ちが少しは分かると思うたけんど、なんも見てこんかったか。まぁええわ。出て行くんやったら本当は大学の時にかかったお金を返してもらいたいけんど、ええわ、好きにせぇ。」
そう捨て台詞を吐くと父は席をたち、その儘自分の部屋へ入っていきました。残された母は黙って涙を流していました。そして私はその場に一秒でもはやく去りたい気持ちで席をたち、家を出てフラフラと街へ出かけたのです。
私は間違っていたのでしょうか。もう一切が分からなくなっていました。息はだんだんと苦しくなってくる一方です。頭に思い浮かぶのは、関東の慣れ親しんだ街並みやNをはじめとした友人たちの顔ばかり。ですが今の私は一人ぼっち。誰も私を知らないのです。こちらの友人も知りません。父も私のことを知りません。母ですら私のことを知らないのです。私は深い孤独に全身を貫かれたような気分になってきました。ああ、足ももつれてきました。上手く立つことが出来なくなった私は、アスファルトめがけて体を叩きつけられました。もうめちゃくちゃです。何がなんだか一切が分かりません。どうにでもなってしまえ。そう思った時でした。私の転んたアスファルトの先には一輪の、もう既に白い種をつけたたんぽぽが咲いていました。冬の冷たさが残っているとは言え、春は春です。咲いていたとしても全く可笑しくありません。ですが、そのなんも変哲もないたんぽぽに私は心奪われていました。硬いアスファルトに力強く根づき堂々と孤独に咲いているそれは、今は微弱でも、いつかはコンクリートを貫く程の力強い生命力を持った種をこの瞬間に飛ばしています。この種たちは他の兄弟達と別れ、暫くは寂しい思いをすることでしょう。ですが、孤独になろうともこの種は成長し、やがては母親と同じように新たな生命を風に運ばせる日がくることでしょう。そう考えていくうちに、私の呼吸は軽くなり、すんなりと立ち上がることできました。この時このたんぽぽは私の中にも、この力強い生命の種をわけてくれたのです。私はこれまでの足取りとは違い、しっかりと地面に踵をつけて暗闇の中へと進んで行きました。
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