2017年2月3日金曜日

仇討三態ーその二ー菊池寛(修正版)

   鈴木忠二郎、忠三郎の兄弟の弟は、敵討ちの旅に出て八年の後、親の仇である和田直之進の居場所を突き止める事が出来ました。しかし一人討つのでは、当座にいない兄の無念を考え、途中別れた道を戻り、迎えに行く事にしたのです。ところが二人がその場に行きついた時には、直之進は既に病死していたのでした。そして兄弟は八年の旅が徒労に終わった事、仇討ちを果たせなかった事の無念という苦い韮を噛み締めながら、故郷へ帰っていったのでした。
   故郷に帰った彼らを待っていたのは、人々の罵詈雑言の数々でした。敵討を躊躇している間に死なれた、或いは病死した者が本当に和田直之進とも確認せずに帰参した。一番酷いものでは、兄弟は八年の敵討ちに飽きておめおめと帰ってきたのだという者までいます。ですが兄弟が一番悲しかったのは、そうした疑いを晴らす機会が、永久に来ない事でした。
   そして兄弟の味わうべき韮は、まだ尽きてはいません。彼らと同藩である久米幸太郎兄弟は、実に三十余年の月の末、敵討ちを果たし帰ってきたのです。彼らの栄光を比較する為、市井の人々は鈴木兄弟を引き合いに出して噂しました。韮はそれだけではありません。実は鈴木と久米は遠い縁者であり、忠二郎は敵討ちをの祝いの席に出席せねばならなかったのです。忠二郎は、ここで欠席すれば、人々から新たに後ろ指を指される種を自らつくってしまうと思い、必死の覚悟で酒宴に連なりました。
   その当日、夜も更け、客が一人一人と抜けていく中で、それを見計らって久米幸太郎から酒を一杯貰いにいきました。その際、「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」と彼を労わりました。この真摯な同情のこもった言葉を聞いた忠二郎は、つい愚痴っぽくなり、幸太郎達を羨ましがったのです。彼は男泣きに泣きました。しかし幸太郎は制するように、
「何を仰られるのじゃ。一旦敵を持った者に幸せなものがござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命を敵討ばかりに過ごした者の悲しみをご存じないのじゃ。」
   と、大粒の涙を零しながら言いました。忠二郎は傷ついた胸が和らぐような想いがすると共に、幸太郎と共に涙を流したのです。

   この作品では、「仇討ちの失敗が、かえって成功者との理解を深めていくきっかけとなっていった、ある敵討ち」が描かれています。

   感情の理解という意味において、この作品の中で主体的に動いている人物は、忠二郎ではなく、主に幸太郎の側です。ですので、ここはひとまず、幸太郎の中で、忠二郎の内面をどのように見つめていったのかを整理していく事が妥当でしょう。
   そしてその大きな手助けとなったものが、敵討ちの失敗でした。同じ敵討ちという目標を掲げて故郷を出発したにも拘わらず、自分たちは成功し、鈴木兄弟は失敗した事に関して、幸太郎は同情を寄せずにはいられなかったはずです。そうして彼は自らの体験をもとにして、忠二郎の内面を追体験しはじめます。しかし、彼の八年という旅路が徒労に終わり、人々から受ける屈辱に耐えなければならぬ兄弟に同情する一方で、一方引いた視点から更に自分達の旅路と彼らの旅路の比較をした事でしょう。そして自分たちの三十余年という、自分たち敵討ちの特殊的な在り方を再確認したのです。
   またそれを受けた忠二郎にも変化が当然にありました。それまで自分達の無念ばかりに囚われて、自分の世界に閉じこもっていた彼にとって、幸太郎の「何を仰られるのじゃ。一旦敵を持った者に幸せなものがござろうか。(以下略)」という言葉は、自分知らない痛みがまだあったのか、という衝撃があったはずです。そして互いの、誰にも知り得る事の出来ない痛みが、互いにある事を忠二郎は知った為に、共感の涙を流す事が出来たのでした。

2017年1月31日火曜日

仇討ち三態・その一ー菊池寛(修正版)

   父を殺された事をきっかけに、仇討ちを志した惟念は、それに十六年間という、長い月日を費やしました。しかし仇討ち相手は一向に見つからず、遂には自身の仇討ちの成功を祈っていた母親までもが死去してしまう始末。そして途方に暮れた彼は、得度して雲水として仏道修行に励んでいました。ところが、得度したとは言え、惟念の中には依然として復讐の心が微かに残っているのです。
   そんなある日、とある老僧が彼の前に現れます。顔立ちは惟念の前にいたので確認することはできませんでしたが、その作務衣は、在俗の頃に来ていたものらしく、なんと惟念の仇討ち相手と同じ紋があったのです。これには彼も動揺し、これまで自身の内にあった復讐心がこみ上げてきました。が、仏道に励む自分が、在俗の頃の事情を持ち出すべきではないし、未だ仇討ち相手ときまった訳ではないと思い、その心を鎮めます。又、彼の持ち得る数少ない情報では、仇討ち相手の右顎には傷があるらしいのです。ですから彼は、決して顔は見ないようにしようとしました。
   ところが、ひょんな老僧の仕草から、その顎を見てしまいます。そしてそれは矢張り、惟念の仇討ち相手に相違ありませんでした。刹那、「おのれ!」という言葉が口をついて出かかりましたが、彼の道心は辛うじて打ち勝ち、老僧を痛めつけてやりたいという衝動を抑えることが出来たのです。
   ですが、自分の心が信用できない惟念は、二度と未練がましい妄執に囚われないように、何かに誓っておきたい気持ちになりました。そこで、一層の事老僧に打ち明けて、現在の自分が復讐とは無縁の身である事を伝えておこうと思ったのです。しかしながら、今度は事情を知った老僧が仇討ちを進めまじめます。
「われらは、身上の有付きなきための、是非なき出家じゃ。御自分は違う。われらを討ち申されて帰参なさるれば、本領安堵は疑いないところじゃ。その上、我らを許して安居を続けられようとも、現在親の敵を眼前に置いては、所詮は悟道の妨げじゃ。妄執の源じゃ。心事の了畢などは思いも及ばぬことじゃ。」
   このような言葉は、惟念の覚悟を揺さぶるのに、充分な効果を持っていました。が、またしても彼は迷いに打ち勝ち、笑い飛ばしてしまいます。

   その夜、雲水たちには座禅を休止するお触れが出ていましたが、惟念にとっては大切な一夜だったので、ただ一人座禅に励みました。すると、眼前にいる父の敵を打たなかった事への悔恨が強烈に彼を支配しようとしますが、それが徐々に薄れていき、やがては神々しい薄明かり
がその心の内をほのかに照らすような心持ちになっていったのです。

   その後、惟念んは床に就きますが、なかなか眠る事ができません。そして漸く眠気が襲ってきて目を瞑ったかと思うと、何者かが彼の前に立っていたのです。それは昼間の老僧に他なません。彼は惟念の言葉が信じられず、逆恨みによって殺しに来たのでした。それに対して憐憫の心を惟念は感じましたが、すぐに消えていき、
「愚僧は宵より、右肩を下につけ、疲れ申す。寝返りを許されい!」
    と言って、再び目を瞑ったのでした。この次の日、老僧は彼の前から姿を消しました。

   この作品では、〈日々の仏道修行によって、己れの復讐心を信仰へと変えていった、ある愚僧〉が描かれています。

    武士の子として生まれ、復讐を宿命づけられた惟念は、その半生を仇討ちに捧げてきました。しかし、母の死をきっかけに得度し、仏道の道を志していたところに、ひょっこりと仇討ち相手と遭遇してしまったところから、物語は進んでいきます。そしてその最後に、仇討ち相手は性懲りも無く、惟念の心中が信用できないという理由から、今度は彼自身の命を奪おうしました。しかし惟念はそのような事には頓着せず、他人事のように眠りに就いていったのです。この場面は、読者たる私たちに大きな衝撃を与えた事でしょう。それでは、あれ程復讐の念を捨て切れなかった彼が、このような境地に至るまでには、どのような葛藤があったのかを見ていきましょう。
   そもそも、彼が得度する以前から、このような葛藤があった事が考えられます。何せ半生をかけた生き方だったのですから、そう簡単に捨てられる筈もありません。では、どのようしてその復讐心を捨て去っていったのでしょうか。それは彼が母を失った時に感じた強烈な虚無感が、関係しています。
   例を持ち出して説明しましょう。例えば、医学生がその研修の際、肺がんで亡くなった患者の肺を見て、喫煙を決意するなどと言った話はよく耳にします。大抵の場合は一週間程度で再び喫煙者は喫煙を再開してしまうらしいのですが、ごく一部の生徒は禁煙に成功するのも事実です。彼らと再び喫煙をはじめた生徒の分水嶺とは、その時その時の誘惑に打ち勝ち続けられたのか、という事に他なりません。肺がん患者の肺を見た衝撃は同じでも、それを持ち続けられるかどうか、そしてその打ち勝ち続けた実績が禁煙への決意を一層強くしていったのでしょう。
   そして禁煙と復讐とでは、ベクトルもレベルも違いますが、その心の揺れ動きに関しては、同じ事が言えるでしょう。恐らく、修行を始めた当初、惟念は何度も何度も、自身の復讐心が彼を支配しようと襲ってきたはずです。しかし、母を失った虚無感がそれを妨げ、復讐の他に生きる道を探そうとして、仏道へと戻す手助けとなった事でしょう。そして、その打ち勝った実績が彼の信仰の強さとなって表れているのです。
   だからこそ惟念は、自身の仇討ち相手が眼前に現れ、これまでにない強烈な衝動に身を動かされそうになっても、それまで積み上げてきた自分がそれを支え、結果として、完全に克服する事が出来たのでした。

2017年1月29日日曜日

入れ札ー菊池寛(修正版1)

  上州岩鼻の代官を斬り殺した「国定忠次」は、赤山城に籠城していましたが、そこが防ぎきれなくなると、十数人の子分を連れて信州へと逃げていきました。しかし他国へと逃げる為には、現在の子分達の人数が多すぎる為、その中から数人をお供として選ばなければなりません。途端、忠次の心中には、「喜蔵」、「嘉助」、「浅太郎」の三人の名が思い浮かびました。
    ですが、そもそも籠城する以前は五十人いた子分達も、今ではその一握りの十一人で、彼等の忠次への忠誠は尋常なものではりません。そして、これまで苦楽を共にした子分達の中から誰からを選ぶことは、そこに優劣をつけることにもなります。子分を想う忠次の心は、その三人の名を口から告げる事を許してはくれません。そこで子分達との思案の結果、入れ札によって、忠次の付き人「三人」を決めようということになりました。
   ですが、入れ札によって決める事が厄介だと感じている者もいました。少なくとも、「九郎助」はそう考えていました。彼は忠次一家の一番の古株で通常であれば、彼こそが第一の兄分でなければなりません。しかし現実の彼は近年の自身の失態から、その十数年培ってきた声望がめっきり落ちてしまっていたのです。また九郎助の側でも忠次とまったく同じ、三人の名前が頭に浮かびました。一方自分の側で辛うじて入れてくれそうな人物と言えば、彼と同期で後輩連中の台頭を快く思っていない「弥助」以外は思いもつきません。
   そんな事を考えていると、遂に弥助から筆を渡され、九郎助の番が回ってきました。この時弥助は意味ありげな、好意の眼差しが送られました。すると九郎助は、どうしてもあと一枚が欲しくなります。自分の票以外を除き、例の三人の票が割れると考えれば、 三枚が必要になってくるのです。そしてこの時、そうした彼の気持ちを後押しする言葉がその手を動かします。
「おい!阿兄(あにい)!早く廻してくんな!」
   それは浅太郎の、目下を叱るような口調でした。そしてこの言葉が彼の競争心に火をつけ、その命運を分けたのです。

   この作品では、〈自身の意地から、組織の中での自分の立場というものにこだわり過ぎたが故に、かえって恥をかいていったある子分〉が描かれています。

   物語の行方を追う前に、九郎助が何に対して悩んでいたのか、もう一度これまでの話を整理してみましょう。彼も他の子分同様、忠次には並々ならぬ忠誠を感じていた事は間違いのない事実です。そしてその上、彼が一家の古株で、忠次と共に組織を引っ張ってきた時代もあった事、年輩で本来であれば重要な位置にいなければならないものの、過去の失態から失墜している事を考えれば、その悩みというものがどのようなものか見えてきます。
   つまり入れ札を提案され、参加している時の九郎助は、組織の中での自分というものを、この時強く意識しているのです。そしてこれは、彼がそれまでの組織での月日を思い返す一方で、子分達の態度がその年数分の扱いを許してはいないという現状への不満からきているのです。
   そしてそれを象徴するような出来事が、あらすじの最後の部分にあたります。恐らく九郎助は、自分より若い浅太郎に催促された事で、それまで心中に抱いていた不満を爆発させ、自分自身の名前を書いてしまったのでしょう。
   ところがこの直後、彼の心を揺さぶる一言が、なんと九郎助当人の心の内から湧き上がってきたのです。「博打は打っても、卑怯なことはするな。男らしくねえことはするな」これは彼の心の中の忠次の像が彼に怒鳴っている台詞と言えます。そしてこれは彼の忠誠心が起因してると考えても良いでしょう。そして、それまで自分から組織を見つめていた九郎助は、今度は組織の中から自分を見つめていくようになっていくのです。つまり、組織人として今取るべき行動があったにも拘わらず、自分の欲求を満たす為に組織を利用しようとした、という後悔の念に駆られていきます。そして、入れ札の結果もその追い風となっていきました。というのも、結果してやはり誰もが浅太郎、喜蔵、嘉助に入れており、同時にそれは九郎助以外の誰しもが、自分の、忠次に付き添いたいという気持ちを棚上げして、組織の構成員としての役割を果たした事を意味するのです。
   こうして彼は自分の意地というものを組織の中から見つめてしまったが為に、かえってその意地の悪さを自覚せねばならなくなっていったのでした。

2017年1月27日金曜日

風ばかー豊島与志雄(修正版1)

   子供達は学校の先生から、人間はよく見ると左右で異なる形をしており、歩くときも目隠しをしていれば、大抵どちらかにずれてしまうという話を聞きます。しかし、その話をにわかには信じられない彼等は、野原へと向かい、その検証をはじめました。ですが、矢張りどちらかに偏り、まっすぐ歩けません。そんな中「マサちゃん」という男の子だけは、自分の歩く癖を把握し、歩く事ができたのです。そこで子供達はマサちゃんに教わりながら、偏らずに歩く練習をはじめました。
  やがて日も暮れて練習もそろそろ終わろうかという時に、マサちゃんはみんなに対してお手本を見せようとします。ところが先程とは違い、うまく歩く事ができません。彼曰く、風が邪魔をしているというのです。そしてマサちゃんの耳元では、風が「ばかー、ばかー……」と声を立てているような錯覚を感じはじめます。これには流石のマサちゃんも憤慨し、「ばかー」と怒鳴り返すのでした。
   家に帰ると、マサちゃんはお父さんに今日あった出来事を話しました。するとお父さんは、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。」
   と言って笑いました。対するマサちゃんはこう返しました。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
   このマサちゃんの発言を受けてお父さんは笑い出します。そしてマサちゃん自身も、自分のこの結論に納得するかのように笑ったのでした。

   この作品では、〈風という実体のない存在を、素直な子供心によって理解しようとするが故に、現実のものと遊離したもとして扱わなければならなくなっていった、失敗〉が描かれています。

    この物語の最後にある、お父さんとマサちゃんの笑い方には、表現は同じでも、そこに含まれている内容については大きな違いがあります。それでは、それがどのようなものなのか、二人の会話を振り返る中で見ていきましょう。
   マサちゃんの話を聞いたお父さんは、風というものは息と同じく自然にあるものだから、そうした自然に逆らうことの愚かしさをマサちゃんに伝えようとします。しかし、マサちゃんは風の正体が何であるのかが気になったらしく、会話は下記のように続きます。
「風って息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
   しかしこうしたマサちゃんの発言に対して、お父さんは言葉に窮してしまいます。何故ならば、この時点でマサちゃんは風というものが実体を持った存在であり、必ず何処かに潜んでいると考えているからに他なりません。対するお父さんは、風には実体がなく、自然が起こす何らかの現象が風である事は理解しています。ところがそうした常識的な観点はあるものの、それを説明するまでの知識を持ち合わせてはいません。そこでこの矛盾を解消すべく、「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」と、息というものとそれを発生させている実体とを切り離して、お父さんはマサちゃんに説明しようとします。
   しかし、次のやりとりに注目してください。
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
   どうやら風というものが、実体がないところまでは理解できたようですが、マサちゃんのこの理解の仕方では、「だけ」という言葉に気をとられ過ぎてしまうあまりに、息を吹かしている実体が完全に消失してしまい、息が現実のものとは独立した形で現れているのです。
   このマサちゃんの失敗をもう少し分かりやすくする為に、例を取り上げて見ていきましょう。例えば、癌という病気がありますが、これは常識的な見方をすれば、神様が人々の身体に癌なる異常な物質を私達に与えたものなどではく、日常生活での不衛生、或いは不規則な生活が、身体の細胞を癌化させているという事になります。また、数百年前までは、病気というものは悪魔の仕業や祟り等のせいにされてきましたが、現在の常識では、生活の問題として取り扱うようになりました。
   このように、一般的に病気と呼ばれているものは、非現実的なところからいきなり出現したものではなく、現実の在り方からあらわれた現象として扱うべきであり、物語のマサちゃんにしても、このような観点がないからこそ、風が、或いは息がパッと出てきたかのような理解にしか至らなかったのです。
   ですから、この二人の笑いの違いというものは、マサちゃんのそれは、自分たちとは違い、自由が利かない風をあざ笑っています。対するお父さんは、こうしたマサちゃんの子供心ながらにも風を理解しようとして失敗している、そのあどけなさを笑っているのです。

2016年2月9日火曜日

聖女人像ー豊島与志雄(修正版1)

 自身のアタマの中に引き篭りがちである「私」は、しばしば、昼となく夜となく下記のような夢を見ています。

――海岸の深い淵のなか、水面から僅かにのぞき出てる、苔むした滑らかな巌の上に、誰かがじっとしがみついている。――幾抱えもある巨木の根本に、何を 為すでもなく、何を見るでもなく、永遠の彫刻のように、誰かが静かに佇んでいる――。荒野の中を、誰かが歩いている。片方は底知れぬ深い断崖である。もし 覗きこめば、視線と共に体まで底へ引きずりこまされそうだ。危い。ただ歩いている。――誰かが呪文のようなことを唱える……大凶と大吉との交叉する一刻 だ。悪魔になりたいか、神になりたいか。息をひそめよ、息をひそめよ。

 一方現実では、具体的な症状がないにも拘らず、自分自身を「病気」だと診断しています。そして職場の同僚であり肉体関係を持っていると思われる「久子」や「ばあや」が、献身的に彼を看病しているにも拘らず、自堕落な日々を過ごしているのです。
 そんな彼にも身の周りの女性、特に「久子」に関しては、多少の不満があるようでした。キスをする時には眼鏡を外さない無頓着さ、結婚を要求して上記のような彼の孤独の空想を邪魔しようとするところ等が、彼には不愉快なのです。ですが無論、「久子」のすべてが嫌いかと言えばそうではありません。彼女が和服が似合うところや他者を想い合えるところについては、一定の評価を下しています。が、彼にはそうした長所と短所を兼ね備えた「久子」を同一の人物として見ることが出来なのだと云います。

 そんな中、彼のアタマの中にふと、「然し、これがもし「清子」だったならば、そのようなものは全然不要だったろう。」という思いが浮上してきはじめました。「清子」とは「淵の中の巌が見え、古い大木が見え、崖ふちの道が見え」るところから登場した、和服姿の女性です。そして彼女はしばしば、「私」の夢と現実の間からひょっこりと顔を出して、「久子」には甘えられないが、もし「清子」ならば甘えただろう。一般的な女性は結婚で男の自立性を失わせるが、「清子」ならばそのような心配はない、といった具合に世の女性の欠点を埋めていきます。

 ところがそんな彼女が突如として消えなければいけない事件が起こりました。きっかけは、「私」が「ばあや」に赤い色気のある箱枕を買ってくれたところからはじまります。彼はその箱枕に寝転びながら外にある百日紅を眺めていると、「清子」を想い起こし、箱枕に寝かせてみたならば、という妄想に耽っていきました。
 そこに彼の友人たる「尾形」と「久子」が見舞いにやってきました。そこで「久子」は例の箱枕を発見し、「私」に他の女性の影があるのではと邪推し、彼の傍に投げ出したのです。「清子」を汚されたと感じた彼は憤慨し、
「もう帰ってくれ。君たち帰ってくれ。僕は一人でいたいんだ。この大事な箱枕をして、彼女のことを考えていたいんだ。一人きりでいたいんだ。何をぐずぐずしてるんだ。帰れよ。僕はもう一切口を利かないぞ。黙って一人でいたいんだ。」
 と言って二人を追い出しました。ところが肝心の彼女は、彼らが去ると共に、アタマの中から消えてしまったのです。一体何故彼女は消えてしまったのでしょうか。

 この作品では、〈自身のアタマの中に引き篭もりがちな男が、現実の女性と関わっていく中で聖女をつくりあげる事で、より引きこもらなければならなくなっていった様子〉が描かれています。

 上記の問題を解き明かす為に、もう一度、「清子」が「私」にとってどのような存在であり、またどのようにつくりあげられていったのかを見ていきましょう。

 もともと現実よりもアタマの中で暮らしていく事が好きな「私」は、一定の長い期間、「久子」を観察する中で、自分の中に「好きな久子」と「不満のある久子」が存在している事を自覚していきます。そうして自覚していくうちに彼にとってそれらは、同一の人物として見ることが出来なくなっていきます。彼はこのようにして、現実に存在する「久子」を好きな部分とそうでない部分に切り分けて考えていきました。そして恐らく、「久子」ばかりではなく、彼は身の回りのあらゆる女性をこうして二つに分けて、アタマの中に完璧な女性、つまり「聖女」の像をつくり上げていったのです。
 余談ですがこのように述べると、「私」という人物は、現代で言うところの所謂「オタク」に似た存在だと読者は思われる事でしょう。確かに自分のアタマの中で理想の女性像を育むといった点に置いた点では共通しています。しかし、オタクの場合は現実の女性ではなく、あくまでもアニメーションや漫画のそれといった、誰かがつくった創作物を参考にしています。ですから、その分現実の女性とはかけ離れた「聖女」をつくりあげてしまうのです。一方の「私」はあくまで現実の女性を参考にしているので、精度としてはこちらの方が、より現実に近い女性なのだと言うことが出来るでしょう。

 そして、彼女は、どんどんと彼の中にある、主に現実の女性への不満を栄養として育っていきます。そして遂には、箱枕という道具を用いる事で、「私」のアタマから離れて、彼と共に寝転がるまでの存在になっていきました。

 ところが彼女の誕生と発展の中にこそ、彼女の死が存在しています。それは「久子」が箱枕を投げる場面を整理すれば理解できるはずです。
 箱枕を鍋られた「私」は、友人である「尾形」と「清子」の主なモデルであった「久子」を怒鳴って追い出します。すると、モデルを失った、不完全な「清子」はどうなるのでしょうか。

 ここで話をすすめる前に私が何故彼女を不完全と彼女を評したのかについて、説明を加えておきたいと思います。それは「清子」が彼のアタマの中でまだまだ曖昧な存在であったからに他なりません。
 例えば私たちは、自分の尊敬する指導者や俳優を思い描く時とはどのような時でしょうか。きっと直接指導されている内容を一人で実践している時や、スクリーンと似たようなシチュエーションを直接見た時、若しくはアタマの中で設定した時など、かなり限定的な空間において思い浮かべる事でしょう。しかし、一歩私生活や恋人や家族と過ごしている彼ら、或いは未来の彼らを思い浮かべてみろと言われたのならばどうでしょうか。このように他人の像というものは、一般的には一定の範囲名では鮮やかに描くことが出来ますが、その像が弱い時に違ったシチュエーションで彼らを想起しようとしてもなかなか出来なのです。

 ですから、そうしたモデルという手がかりを失った「清子」という存在は、それなしには生きられず、彼のアタマの中から消えなければならなかったのです。しかし完全に消えたのかと言えばそうではありません。下記は、「尾形」や「久子」が去った後の場面を描いています。

――私は眼を開く。そこには誰もいない。尾形も久子も帰っていったらしい。婆やもいない。ただ私一人だ。もう清子もいない。清子は果して実在の人間だろうか。そうだ、私にとっては架空のものではない。――

 つまり「私」はアタマの中の「清子」という存在を現実の女性と同列に並べることによって、更にその像を膨らませようとしているのです。尚、この一文というものは、読者たる私たちに、同時に今後の彼の未来が不吉なものだと暗示させていることも見逃してはならないものであると言って良いでしょう。

2016年2月5日金曜日

風ばかー豊島与志雄

 ある時、学校で先生が言った、「人間は正しく左右対称ではないために、目を瞑った儘、真っ直ぐ歩くことはできない」という発言を受けて、子どもたちは放課後本当に真っすぐ歩けないのか野原で実証してみることにしました。
 しかしそうした実験は、やがて子供達の競争心に火をつけて、誰が最も目を瞑った儘真っ直ぐ歩けるかというゲームに変わっていきます。そしてその中で唯一、まっすぐ歩くことができた「マサちゃん」は、他の子供達の賞賛を受けて、自ら指導する立場をとっていったのです。
 やがて夕方になって練習も終わろうとしていた時、「マサちゃん」はもう一度皆の前で見本を見せようとしました。ところが、まさちゃんが真っ直ぐ歩いていた時とは違い、野原には風が吹いています。風は「マサちゃん」を妨害するように吹きますが、それでも彼はめげません。するとそのうち、「マサちゃん」の耳元で「ばかー、ばかー」と言ってくる「もの」があります。それは風だったのですが、なんとこの空耳を受けて、「マサちゃん」は風に本当に馬鹿にされたのだと勘違いして、風に向って怒鳴り出したのです。

 そして家に帰って彼は、両親に今日あった出来事を話しました。すると「お父さん」は、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。木の葉だって、まっすぐに落ちたり、ななめに吹きとばされたりしてるじゃないか」
 と指摘しました。「マサちゃん」は聞き返します。
「風って、息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
 そうした「まさちゃん」の発言を聞いて「お父さん」は声高く笑いました。そしてそれに続く形で、「マサちゃん」もお母さんも笑い出します。そしてガラス戸の外で風が吹いている事を確認すると、「マサちゃん」は、「ばかな風だな」と言って晴れ晴れと笑ったのでした。


 この作品では、〈風というものを常識の観点から眺めている大人の観点と、自分たちと同じ、生き物のように捉えている少年のイキイキとした感性との対比〉が描かれています。

 物語の最後で、「お父さん」は「マサちゃん」の、「ばかな奴だな」というコメントを聞いて笑い、「マサちゃん」もそれに続く形で笑ってはいるのですが、果たして二人の笑い方は同じところを笑っているのでしょうか。
 この問題を解くにあたり、もう一度物語を「マサちゃん」の世界観での「風」というものと、「お父さん」の世界観での「風」というものを比較してみましょう。

 まず、「マサちゃん」は、自身の遊びの妨げとなっている風に対して、「ばかー、ばかー」という「音」を聞いて、憤慨します。この時、「マサちゃん」は風をあたかも自分たちと同じような「意思」を持ち、自由に動けるものとして扱っているのです。
 一方、「お父さん」はこの「マサちゃん」の話を聞いて、「風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。木の葉だって、まっすぐに落ちたり、ななめに吹きとばされたりしてるじゃないか」とコメントしています。つまり「お父さん」は、大人の常識的な観点から、風が意思を持たない事を説明しようと試みているのです。
 そして「マサちゃん」が、今度は風って、息をするんですか」と言って、風の正体について興味を持ちはじめます。「お父さん」はこれについて、「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」と、風が自分たち人間とは違い無機質なものであることをやんわりと伝えようとしました。
 それを受けて「なんの息?」と、今度は風の裏側にある意思を探そうとしています。
 そして「お父さん」も、「マサちゃん」がまだありもしない実体を風の中から探そうとしている事を感じ取り、すぐに修正しようとしているのです。
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
 しかしこれま「マサちゃん」にとっては衝撃でした。何故ならば、それまでの「マサちゃん」の世界観では、万物は皆意思のようなものを持っており、自分たちと同じように自由に動きまわっていると考えているのですから。だからこそ、自分たちとは違う存在がいることを確認するために、
「ただ、息だけ?」と聞き返しているのです。そして「ばかな奴だな」と笑うのでした。
 ここで注意しなければならないのは、「マサちゃん」は何も風を無機物だ、とは考えていないということです。「マサちゃん」は、自らの意思とは関係なく運動している存在は認めてはいるものの、「モノ」にはすべて意思があるという世界観を捨て切れず、風のことを「奴」と表現しているのです。ですから、ここでの彼の笑いというものは、「自らの意思で動けず、僕達とは違って不自由に動いているなんて、風はばかだなぁ」と笑っているに過ぎません。
 それに対してお父さんは、常識的な立場から「マサちゃん」を見て、「大人は風に心がない事をしっているから何も思わないが、子供が風に対して悪態をつくなんて、面白いものだなぁ」と、冷静に分析した上で笑っています。
 一つの表現は同じでも、どうやらその文脈は全く違うものだったのです。

2016年2月2日火曜日

風ばかー豊島与志雄(あらすじのみ)

一般性、及び論証は後日改めて書いておきます。

 ある時、学校で先生が言った、「人間は正しく左右対称ではないために、目を瞑った儘、真っ直ぐ歩くことはできない」という発言を受けて、子どもたちは放課後本当に真っすぐ歩けないのか野原で実証してみることにしました。
 しかしそうした実験は、やがて子供達の競争心に火をつけて、誰が最も目を瞑った儘真っ直ぐ歩けるかというゲームに変わっていきます。そしてその中で唯一、まっすぐ歩くことができた「マサちゃん」は、他の子供達の賞賛を受けて、自ら指導する立場をとっていったのです。
 やがて夕方になって練習も終わろうとしていた時、「マサちゃん」はもう一度皆の前で見本を見せようとしました。ところが、まさちゃんが真っ直ぐ歩いていた時とは違い、野原には風が吹いています。風は「マサちゃん」を妨害するように吹きますが、それでも彼はめげません。するとそのうち、「マサちゃん」の耳元で「ばかー、ばかー」と言ってくる「もの」があります。それは風だったのですが、なんとこの空耳を受けて、「マサちゃん」は風に本当に馬鹿にされたのだと勘違いして、風に向って怒鳴り出したのです。

 そして家に帰って彼は、両親に今日あった出来事を話しました。すると「お父さん」は、
「それは、お前の方がばかだよ。風にさからってもつまらない。風というものは、強くなったり弱くなったり、息をついて吹くから、その中をまっすぐに歩くのはむずかしいよ。木の葉だって、まっすぐに落ちたり、ななめに吹きとばされたりしてるじゃないか」
 と指摘しました。「マサちゃん」は聞き返します。
「風って、息をするんですか」
「うむ、息をするよ。息をするというより、風は息なんだよ」
「なんの息?」
「なんの息って……。どういったらいいかなあ、空気の息、神様の息、いろんなものの息……ただ息だよ」
「ただ、息だけ?」
「息だけだよ」
「ばかな奴だな」
 そうした「まさちゃん」の発言を聞いて「お父さん」は声高く笑いました。そしてそれに続く形で、「マサちゃん」もお母さんも笑い出します。そしてガラス戸の外で風が吹いている事を確認すると、「マサちゃん」は、「ばかな風だな」と言って晴れ晴れと笑ったのでした。