スバーという娘は3人娘の末娘で、言葉が話せません。ですから人々は彼女に感情がないかのように考えており、平気で彼女の前で平気で先の行く末の話や彼女自身の論評をします。そして、彼女の母親もその例外ではなく、自分の身体についた汚点(しみ)のようにすら思っていました。
しかし彼女は口が聞けない代わりに、整えられた容姿が与えられ、そしてその目にはあらゆる人の気持と、スバー自身の存在を語るかのような説得力を持っていました。それ故、他の子供達は誰も彼女と遊びはしません。
またスバーの父は彼女を大切に思っているものの、親としての責任を果たすという理由から、彼女を他所の家に嫁がせようとしました。
そして友人のプラクタは彼女がそれを嫌がっていたにも拘わらず、良きことだと考え祝福したのです。
更に、彼女の婿はスバーが不具の者である事を知ると、次はものの云える妻と結婚したのでした。
この作品では、〈唖故に、誰からもその気持を蔑ろにされ続けてきた、ある娘が描〉かれています。
結局スバーの事を悪く思う人、スバーの事を良く思う人の両方共から、彼女は彼女自身の気持ちを理解される事はありませんでした。
ですが、そのどちらからも理解されなかったからと言って、彼女自身の気持ちがなくなる訳ではありません。それは普段、自分をも含めて、自分が寝ている間に鼾を聞かれていない人がいるからと云って、鼾が存在しなかったことにならない事と同じです。彼女自身が傷ついた事実は確かに彼女の中に残ります。また、こうした文字に起こすことによって、そうした今にも消えかかりそうな人の気ち持があった事実は、私たちの胸を深く貫く事でしょう。やがて物語のように、声にならない声、あるかないか分からないような人の気持ちの存在が、自分たちの身の回りにも溢れているのではないか、という思いに駆られてくる人は少なからずいるのではないでしょうか。
そして、そうした人々に知られていない感情の存在を描くことも、物語や小説のひとつの重大なテーマなのです。
2015年1月30日金曜日
2015年1月28日水曜日
カイロ団長ー宮沢賢治
30疋の「あまがえる」達は他の虫達から仕事を頼まれ楽しくこなしていました。
ある時、ウイスキイを飲ませてくれる「とのさまがえる」のお店に立ち寄ったところ、ガブガブと呑んでしまい、高額な料金を請求される羽目になってしまいます。そして「とのさまがえる」から、警察に突出されたくなければ家来になれ、と言われたのでしぶしぶ言うことを聞くことにしました。
こうして彼らは「とのさまがえる」の「カイロ団長」率いるカイロ団に加わったのです。その後の「あまがえる」達の労働は過酷なもので、「とのさまがえる」から無理難題を押し付けられていきます。ですが「あまがえる」達は警察に突出されたくない一心で、懸命に云うことを聞こうとしました。
ところがある時、石を1人900貫ずつ運んでこいと言われたのですが、人間でも持てない石の重さに、彼らは困り果ててしまったのです。
ちょうどその時、かたつむりのメガホーンが周りに響き、王様の伝令が言い渡されました。要約すると、人に仕事を依頼する時にはその人の気持ちにならなければならず、依頼する前には実際に自分でもそれをやってみなければならない、というようなものだったのです。これを聞いた「あまがえる」達は早速、「とのさまがえる」に自分たちの仕事をさせてみました。「とのさまがえる」は石を動かそうとはしますがビクともせず、しまいには足がキクっと曲がってしまいます。その姿に「あまがえる」達は思わずどっと笑いましたが、後でなんとも云えない寂しい気持ちになっていきました。そんな時、再び王様の伝令が彼らの耳に聞こえます。
「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」
そこで「あまがえる」達は「とのさまがえる」を助けて、「とのさまがえる」はホロホロ涙を流し反省しはじめました。彼はこれまでの事を詫びて仕立屋をやることを公言し、次の日から「あまがえる」達は再び楽しく仕事をはじめたのです。
この作品では、〈支配者と非支配者の形勢が逆転した時にこそ、その人の人格が問われる〉ということが描かれています。
支配者たる「とのさまがえる」が「あまがえる」達を支配し、云うことを聞かせていたにも拘わらず、王様の伝令が下ると、これが「あまがえる」達にとって有利に働き、多くの読者は痛快な気分になることでしょう。まさに「とのさまがえる」は自業自得な目に遭い、「あまがえる」達もどっと笑うのですが、彼らはここで寂しい気持ちになっていきます。と云いますのも、彼らは自分たちの立場を一歩引いたところから考えたのです。そしてその前後はどうであれ、大勢で立場が弱くなった「とのさまがえる」を働かせて笑いものにしているとはどういうことか、という生き物(人間)としての倫理観が働いていったのでした。
その彼らの姿に、多くの読者は少なからず、「しまった」と思うことでしょう。「カチカチ山」や「桃太郎」のような昔話を呼んだ時、私達は鬼や猿が復讐される様を見て痛快に思った方も少なくはないはずです。またもっと身近な例で言えば、子供の頃、いじめっ子が別の、上級生のいじめっ子に苛められている様などは、自分が苛められておらずとも胸がスッとなるような思いがしたという方もいるかもしれません。
そしてそういう方たちにこそ、こうした「あまがえる」の感情は胸を打つ事でしょう。酷いことをやっていた人が酷い目に合う姿や、誰かの復讐にあう様は面白いかも知れませんが、それはただ自分の感情が満たされているに過ぎないのです。そしてこうした観点から見た時には、両者は同じレベルでしかなく、尚更寂しい思いがする事でしょう。
だからそこ物語の「あまがえる」達は、王様の最後のひと押しもあって、自分の感情を満たす為ではなく、生き物としてより良い解決の方法を模索しようとしたからこそ、「とのさまがえる」を助けたのです。
ある時、ウイスキイを飲ませてくれる「とのさまがえる」のお店に立ち寄ったところ、ガブガブと呑んでしまい、高額な料金を請求される羽目になってしまいます。そして「とのさまがえる」から、警察に突出されたくなければ家来になれ、と言われたのでしぶしぶ言うことを聞くことにしました。
こうして彼らは「とのさまがえる」の「カイロ団長」率いるカイロ団に加わったのです。その後の「あまがえる」達の労働は過酷なもので、「とのさまがえる」から無理難題を押し付けられていきます。ですが「あまがえる」達は警察に突出されたくない一心で、懸命に云うことを聞こうとしました。
ところがある時、石を1人900貫ずつ運んでこいと言われたのですが、人間でも持てない石の重さに、彼らは困り果ててしまったのです。
ちょうどその時、かたつむりのメガホーンが周りに響き、王様の伝令が言い渡されました。要約すると、人に仕事を依頼する時にはその人の気持ちにならなければならず、依頼する前には実際に自分でもそれをやってみなければならない、というようなものだったのです。これを聞いた「あまがえる」達は早速、「とのさまがえる」に自分たちの仕事をさせてみました。「とのさまがえる」は石を動かそうとはしますがビクともせず、しまいには足がキクっと曲がってしまいます。その姿に「あまがえる」達は思わずどっと笑いましたが、後でなんとも云えない寂しい気持ちになっていきました。そんな時、再び王様の伝令が彼らの耳に聞こえます。
「王様の新らしいご命令。王様の新らしいご命令。すべてあらゆるいきものはみんな気のいい、かあいそうなものである。けっして憎んではならん。以上。」
そこで「あまがえる」達は「とのさまがえる」を助けて、「とのさまがえる」はホロホロ涙を流し反省しはじめました。彼はこれまでの事を詫びて仕立屋をやることを公言し、次の日から「あまがえる」達は再び楽しく仕事をはじめたのです。
この作品では、〈支配者と非支配者の形勢が逆転した時にこそ、その人の人格が問われる〉ということが描かれています。
支配者たる「とのさまがえる」が「あまがえる」達を支配し、云うことを聞かせていたにも拘わらず、王様の伝令が下ると、これが「あまがえる」達にとって有利に働き、多くの読者は痛快な気分になることでしょう。まさに「とのさまがえる」は自業自得な目に遭い、「あまがえる」達もどっと笑うのですが、彼らはここで寂しい気持ちになっていきます。と云いますのも、彼らは自分たちの立場を一歩引いたところから考えたのです。そしてその前後はどうであれ、大勢で立場が弱くなった「とのさまがえる」を働かせて笑いものにしているとはどういうことか、という生き物(人間)としての倫理観が働いていったのでした。
その彼らの姿に、多くの読者は少なからず、「しまった」と思うことでしょう。「カチカチ山」や「桃太郎」のような昔話を呼んだ時、私達は鬼や猿が復讐される様を見て痛快に思った方も少なくはないはずです。またもっと身近な例で言えば、子供の頃、いじめっ子が別の、上級生のいじめっ子に苛められている様などは、自分が苛められておらずとも胸がスッとなるような思いがしたという方もいるかもしれません。
そしてそういう方たちにこそ、こうした「あまがえる」の感情は胸を打つ事でしょう。酷いことをやっていた人が酷い目に合う姿や、誰かの復讐にあう様は面白いかも知れませんが、それはただ自分の感情が満たされているに過ぎないのです。そしてこうした観点から見た時には、両者は同じレベルでしかなく、尚更寂しい思いがする事でしょう。
だからそこ物語の「あまがえる」達は、王様の最後のひと押しもあって、自分の感情を満たす為ではなく、生き物としてより良い解決の方法を模索しようとしたからこそ、「とのさまがえる」を助けたのです。
2015年1月25日日曜日
怒りの虫ー豊島与志雄
「木山宇平」という男は、元来温厚な性格をしていましたが、それが自分の身体の不調を感じはじめた頃から一変し、癇癪持ちになってしまいました。やれ服にハンカチが入っていないだとか、やれ擦り切れた袖を気にするような男は気に食わないだとか、些細な事で怒りを露わにしていきます。
この木山の変貌ぶりを見て、人々は「怒りの虫」に蝕まれているのだと云うのです。そしてそんな彼はと云いますと、自分の肉体の変化については原因も特定せぬ儘に、「肝臓がわるいのだ」と決め打ちをして一向に医者にかかろうとはしません。それどころか、肝臓が悪いと云っているにも拘わらず、なんとぐいぐいと酒を呑んでいるではありませんか。一体木山は身体の不調を感じているにも拘わらず、何故酒を呑むのでしょうか。何故こうも怒りっぽくなっていったのでしょうか。
この作品では、〈原因不明の不調からくる不安を肝臓のせいにすることで、かえってより不安になっていった、ある男〉が描かれています。
どうやら木山は自分の正体不明の不調について、肝臓のせいにする事で自分の不安を和らげようという腹があるようです。それは下記の箇所を見ても明らかです。
近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。(中略)肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたく さんだ。
ところがそうは思っているものの、彼は一向にお酒をやめようとはしません。それどころか、その勢いは衰えるところを知らないようです。
と云いますのも、木山は幾ら肝臓のせいだと決め打ちしたところで、それらしい証拠や確証はありません。それどころか、「しかしもし自分の思い違いだったら……」と、かえって自分自身が不安になる材料を余計につくっているのです。ですから彼はお酒をぐいぐいと呑む事で、「ほらやっぱりな」という、彼なりの落とし所をつくろうとしているのでしょう。
具体的に礼を持ち出すとするならば、下記のようなことになります。私達が試験勉強で勤しんでおり、幾ら勉強しても到底合格出来そうにない時、人によっては「どうせ勉強したところで不合格だろう」と、はじめから勉強しない者もいることでしょう。彼らはそうして、受からない要因を自らつくることで試験に落ちた時、「やっぱりな」という安心感を得るためにそうしているのです。
そしてこの木山にも同じことが云えます。彼は肝臓を自ら刺激することで、身体の不調の要因を自らつくっているのです。
しかし幾ら呑んでも呑んでも、彼の後ろ向きな努力とは裏腹に、その成果が出ることはなく、病気は悪化するばかり。だからこそ彼は気持ちが落ち着かず、焦り、やがて苛立ちとなっていき八つ当たりをする羽目になっていったのです。
ですが、物語の終盤ではいよいよ痛みが深刻になったと見え、自分の身体と向き合う決意をしていきます。そしてその決意をした直後、彼はこの世を去っていったのです。
この木山の変貌ぶりを見て、人々は「怒りの虫」に蝕まれているのだと云うのです。そしてそんな彼はと云いますと、自分の肉体の変化については原因も特定せぬ儘に、「肝臓がわるいのだ」と決め打ちをして一向に医者にかかろうとはしません。それどころか、肝臓が悪いと云っているにも拘わらず、なんとぐいぐいと酒を呑んでいるではありませんか。一体木山は身体の不調を感じているにも拘わらず、何故酒を呑むのでしょうか。何故こうも怒りっぽくなっていったのでしょうか。
この作品では、〈原因不明の不調からくる不安を肝臓のせいにすることで、かえってより不安になっていった、ある男〉が描かれています。
どうやら木山は自分の正体不明の不調について、肝臓のせいにする事で自分の不安を和らげようという腹があるようです。それは下記の箇所を見ても明らかです。
近頃彼は身体の違和を自覚しだしていた。殆んど毎夜のように寝汗をかいた。睡眠は浅く、熟睡の気持を味ったことがなかった。(中略)肝臓にでも異変があるのかも知れないぞ。こんな肉体はもうたく さんだ。
ところがそうは思っているものの、彼は一向にお酒をやめようとはしません。それどころか、その勢いは衰えるところを知らないようです。
と云いますのも、木山は幾ら肝臓のせいだと決め打ちしたところで、それらしい証拠や確証はありません。それどころか、「しかしもし自分の思い違いだったら……」と、かえって自分自身が不安になる材料を余計につくっているのです。ですから彼はお酒をぐいぐいと呑む事で、「ほらやっぱりな」という、彼なりの落とし所をつくろうとしているのでしょう。
具体的に礼を持ち出すとするならば、下記のようなことになります。私達が試験勉強で勤しんでおり、幾ら勉強しても到底合格出来そうにない時、人によっては「どうせ勉強したところで不合格だろう」と、はじめから勉強しない者もいることでしょう。彼らはそうして、受からない要因を自らつくることで試験に落ちた時、「やっぱりな」という安心感を得るためにそうしているのです。
そしてこの木山にも同じことが云えます。彼は肝臓を自ら刺激することで、身体の不調の要因を自らつくっているのです。
しかし幾ら呑んでも呑んでも、彼の後ろ向きな努力とは裏腹に、その成果が出ることはなく、病気は悪化するばかり。だからこそ彼は気持ちが落ち着かず、焦り、やがて苛立ちとなっていき八つ当たりをする羽目になっていったのです。
ですが、物語の終盤ではいよいよ痛みが深刻になったと見え、自分の身体と向き合う決意をしていきます。そしてその決意をした直後、彼はこの世を去っていったのです。
2015年1月23日金曜日
四季とその折々ー黒島伝治
著者はここ2、3年のうちに、小豆島の四季の行事を徐々に楽しめるようになってきたのだといいます。と言いますのも、著者はそれまで山の小さい桐の木を誰かが一本伐ったぐらいで大問題にしたり、霜月の大師詣りを、大切な行かねばならぬことのようにして詣る様子を冷ややかな目で観察していたのです。しかしそれらは自身が年を重ねていくうちに、その楽しさ、重要性が分かってきたと言います。一体それはどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈人は生活経験を重ねていくにつれて、自然の変化を大切にするようになっていくものである〉ということが描かれています。
著者は若かりし頃、村の老人たちが桐の木を伐られて目くじらを立てたり、初詣に毎年熱心に通ったりする様を見て、「まるで子供のように」と非難していました。これにはあたかも子どもがおもちゃを取り上げられて憤慨したり、遊園地に連れて行かれ喜ぶ様に似ていた為に、こうした表現を用いたのでしょう。
ですが彼らが村の木や行事にここまで自身の感情を揺さぶられるのは、そうした事とは似て非なるものでした。それは下記の箇所を見れば理解できることでしょう。
彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。
若いうちは受験や仕事、結婚や出産といったように、毎年毎年目まぐるしい変化や刺激が待ち構えており、とてもではありませんが、自然の変化に目を向ける暇もありません。それに何より、それらを捉える経験も視点も持ちあわせていないのです。
しかし、その後は生活も落ち着き、毎日の変化は徐々に減っていき暮らしが平坦なものになっていくにつれて、人々は何処か生活における「張り」のようなものを年を重ねる事に失っていくことでしょう。
ところがある時ふと自分の周りと見てみると、「自分たちが子どもの頃には、あれ程小さかった松の木が今では自分の身長を超える程立派に育っていった」、「昨年はこの川にはホタルが少なかったが、今年はやや増えている」などというように、長年のなんとなくの定点観測の末に、自然に興味を持ち、小さな変化にも気づけるようになっていくのです。
ですから、村の老人たちが自然や行事に目くじらを立てるのは、自分たちが大切にしている事以上に、それらが自分たちと共に生きてきた歴史を指し示すものであり、人生の変化を指し示す指標だからに他ならないのです。彼らは毎年の季節や自然に触れることで、現在の自分の位置を確認し、その変化の足あとを楽しんでいたのでした。
この作品では、〈人は生活経験を重ねていくにつれて、自然の変化を大切にするようになっていくものである〉ということが描かれています。
著者は若かりし頃、村の老人たちが桐の木を伐られて目くじらを立てたり、初詣に毎年熱心に通ったりする様を見て、「まるで子供のように」と非難していました。これにはあたかも子どもがおもちゃを取り上げられて憤慨したり、遊園地に連れて行かれ喜ぶ様に似ていた為に、こうした表現を用いたのでしょう。
ですが彼らが村の木や行事にここまで自身の感情を揺さぶられるのは、そうした事とは似て非なるものでした。それは下記の箇所を見れば理解できることでしょう。
彼等は、樹が育って大きくなって行くのをたのしみとして見ているのである。麦播きがすむと、彼等はこんどは、枯野を歩いて寺や庵をめぐり、小春日和の一日をそれで過すのをたのしみとしているのだ。
若いうちは受験や仕事、結婚や出産といったように、毎年毎年目まぐるしい変化や刺激が待ち構えており、とてもではありませんが、自然の変化に目を向ける暇もありません。それに何より、それらを捉える経験も視点も持ちあわせていないのです。
しかし、その後は生活も落ち着き、毎日の変化は徐々に減っていき暮らしが平坦なものになっていくにつれて、人々は何処か生活における「張り」のようなものを年を重ねる事に失っていくことでしょう。
ところがある時ふと自分の周りと見てみると、「自分たちが子どもの頃には、あれ程小さかった松の木が今では自分の身長を超える程立派に育っていった」、「昨年はこの川にはホタルが少なかったが、今年はやや増えている」などというように、長年のなんとなくの定点観測の末に、自然に興味を持ち、小さな変化にも気づけるようになっていくのです。
ですから、村の老人たちが自然や行事に目くじらを立てるのは、自分たちが大切にしている事以上に、それらが自分たちと共に生きてきた歴史を指し示すものであり、人生の変化を指し示す指標だからに他ならないのです。彼らは毎年の季節や自然に触れることで、現在の自分の位置を確認し、その変化の足あとを楽しんでいたのでした。
2015年1月22日木曜日
襟ーオシップ・ディモフ(森鴎外訳)
※今回はあらすじのみの公開とさせて頂きます。
ロシア人である「おれ」は自国を離れベルリンに来ており、新しい襟を買ったことをきっかけに、古い襟をホテルの窓から捨ててしまいます。ですが街の掃除人の妻に拾われて、それをホテルの門番に届けられてしまいます。また門番は彼を公爵だと勘違いしているようでもありました。
しかし襟を捨てたい「おれ」としては、忘れ物として、わざと電車の中に置き忘れていきます。ですが、これも肥満の男が襟を持って走ってきて、丁寧に渡してくれたのです。また男は名刺を出して、彼に握手を求めていました。
こうして、「おれ」は幾度か襟を捨てることに挑戦しますが、何度もベルリンの人々に拾われる羽目になるのです。またその度に人々は彼の事を公爵だと勘違いしているようなのでした。そして襟を捨てられず気が動転した「おれ」は、電車から襟を持ってきてくれた肥満の男とばったり会った事をきっかけに彼をナイフで刺してしまいます。
こうして「おれ」は裁判にかけられたわけなのですが、彼が正直に自分の心情を話しても裁判官には伝わらず、「誰でも貴方の襟が落ちていたのであれば、拾うはずだ」と言われ、理解されるどころか裁判を嘲弄しているとみなされてしまいました。
そして「おれ」の死刑は確定したのです。死刑が決まった彼は、「おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。」と言って、自らの死を受け入れていくのでした。
ロシア人である「おれ」は自国を離れベルリンに来ており、新しい襟を買ったことをきっかけに、古い襟をホテルの窓から捨ててしまいます。ですが街の掃除人の妻に拾われて、それをホテルの門番に届けられてしまいます。また門番は彼を公爵だと勘違いしているようでもありました。
しかし襟を捨てたい「おれ」としては、忘れ物として、わざと電車の中に置き忘れていきます。ですが、これも肥満の男が襟を持って走ってきて、丁寧に渡してくれたのです。また男は名刺を出して、彼に握手を求めていました。
こうして、「おれ」は幾度か襟を捨てることに挑戦しますが、何度もベルリンの人々に拾われる羽目になるのです。またその度に人々は彼の事を公爵だと勘違いしているようなのでした。そして襟を捨てられず気が動転した「おれ」は、電車から襟を持ってきてくれた肥満の男とばったり会った事をきっかけに彼をナイフで刺してしまいます。
こうして「おれ」は裁判にかけられたわけなのですが、彼が正直に自分の心情を話しても裁判官には伝わらず、「誰でも貴方の襟が落ちていたのであれば、拾うはずだ」と言われ、理解されるどころか裁判を嘲弄しているとみなされてしまいました。
そして「おれ」の死刑は確定したのです。死刑が決まった彼は、「おれはヨオロッパのために死ぬる。ヨオロッパの平和のために死ぬる。国家の行政のために死ぬる。文化のために死ぬる。」と言って、自らの死を受け入れていくのでした。
あいびきーイワン・ツルゲーネフ
夏の気配を残しながらも、秋が今にも深まっていこうとしている頃、「自分」は白樺林の自然を堪能しているとウトウトと眠りはじめてしまいます。
やがて目が覚めると、近くに農夫の娘らしき人物が近くに座っていました。ですが、向こうは「自分」には気がついておらず、何やら不安な面持ちで誰かを待っている様子。すると茂みの方から、「ヴィクトル」と呼ばれる男がやってきます。どうやら話を聞く限り良い家柄の出身で、彼から「アクーリナ」と呼ばれている農家の娘は、彼を待っていたようなのです。ところが彼らは恋仲のようなのですが、「ヴィクトル」は明日この地を離れるのだと言います。そしてそれを聞いた「アクーリナ」は目に涙を溜めていきます。しかしそうした彼女とは対照的に、「ヴィクトル」は冷たく、彼女の行動に明らかな嫌悪感を感じていました。やがて「アクーリナ」に見かねた彼は、彼女の制止もきかず、その場を立ち去ってしまいます。
その様子を文字通り、草葉の陰から見ていた「自分」は、見るに見かねて「アクーリナ」近づこうしました。ですが彼の存在に気がついた彼女は、慌ててその場を立ち去り、後には彼女が持っていた草花の束ねだけが残ったのです。そこで「自分」はそれを持ち帰り、現在でもからびたまま秘蔵してあるのだといいます。
この作品では、〈決して接点を持つことのなかった2人のうち片方が、鑑賞者としての視点を持ったが故に、その存在を認めていった〉ことが描かれています。
この作品の面白みは、何も知らない「自分」が、農家の娘と上品な生まれの青年との「あいびき」の一場面を、まるでスクリーンのない映画でも鑑賞するかのように見守っているというところにあります。そして彼と2人の間には、接点が全くなく、「自分」から見れば2人は物語の登場人物なのであり、「自分」はただの鑑賞者にしか過ぎません。
ですがこの場合と映画との違いは、幾ら鑑賞者とは言えでも、その気になれば舞台に上がれるということなのです。そして「自分」はそれをやってのけます。と言いますのも、「ヴィクトル」にあまりにも邪険にされ過ぎていた為、「アクーリナ」が不憫になり、何かしたい思いに駆られていったのです。
しかし当の本人たちからすれば、当然「自分」という存在は全くなんの関係も縁のない存在であり、ただの他人と対面した「アクーリナ」は慌ててその場を去ってしまいます。
ですがそこに残された草花の束ねは、確かに「アクーリナ」という娘が確かにそこにいた事を示す何よりの証拠であると同時に、「自分」と彼女とが、これからの人生で交わる事がないであろう2人が僅かながらの接点を持ち得た唯一のものでもあるのです。ですから彼は、花束をその場から持ち帰る気になったのでした。
よって自分は鑑賞者としての視点を持っていた為に、本や映画の登場人物を見るかのように、一方的に「アクーリナ」へ感情移入しその思いをいつまでも大切にしていったのです。
やがて目が覚めると、近くに農夫の娘らしき人物が近くに座っていました。ですが、向こうは「自分」には気がついておらず、何やら不安な面持ちで誰かを待っている様子。すると茂みの方から、「ヴィクトル」と呼ばれる男がやってきます。どうやら話を聞く限り良い家柄の出身で、彼から「アクーリナ」と呼ばれている農家の娘は、彼を待っていたようなのです。ところが彼らは恋仲のようなのですが、「ヴィクトル」は明日この地を離れるのだと言います。そしてそれを聞いた「アクーリナ」は目に涙を溜めていきます。しかしそうした彼女とは対照的に、「ヴィクトル」は冷たく、彼女の行動に明らかな嫌悪感を感じていました。やがて「アクーリナ」に見かねた彼は、彼女の制止もきかず、その場を立ち去ってしまいます。
その様子を文字通り、草葉の陰から見ていた「自分」は、見るに見かねて「アクーリナ」近づこうしました。ですが彼の存在に気がついた彼女は、慌ててその場を立ち去り、後には彼女が持っていた草花の束ねだけが残ったのです。そこで「自分」はそれを持ち帰り、現在でもからびたまま秘蔵してあるのだといいます。
この作品では、〈決して接点を持つことのなかった2人のうち片方が、鑑賞者としての視点を持ったが故に、その存在を認めていった〉ことが描かれています。
この作品の面白みは、何も知らない「自分」が、農家の娘と上品な生まれの青年との「あいびき」の一場面を、まるでスクリーンのない映画でも鑑賞するかのように見守っているというところにあります。そして彼と2人の間には、接点が全くなく、「自分」から見れば2人は物語の登場人物なのであり、「自分」はただの鑑賞者にしか過ぎません。
ですがこの場合と映画との違いは、幾ら鑑賞者とは言えでも、その気になれば舞台に上がれるということなのです。そして「自分」はそれをやってのけます。と言いますのも、「ヴィクトル」にあまりにも邪険にされ過ぎていた為、「アクーリナ」が不憫になり、何かしたい思いに駆られていったのです。
しかし当の本人たちからすれば、当然「自分」という存在は全くなんの関係も縁のない存在であり、ただの他人と対面した「アクーリナ」は慌ててその場を去ってしまいます。
ですがそこに残された草花の束ねは、確かに「アクーリナ」という娘が確かにそこにいた事を示す何よりの証拠であると同時に、「自分」と彼女とが、これからの人生で交わる事がないであろう2人が僅かながらの接点を持ち得た唯一のものでもあるのです。ですから彼は、花束をその場から持ち帰る気になったのでした。
よって自分は鑑賞者としての視点を持っていた為に、本や映画の登場人物を見るかのように、一方的に「アクーリナ」へ感情移入しその思いをいつまでも大切にしていったのです。
2015年1月21日水曜日
砂糖泥棒ー黒島伝治
与助は自分の子どもや妻を喜ばせたいという思いから、醤油屋の主人の砂糖倉からザラメ砂糖を盗んでしまいます。そしてその姿は主人の目にしっかりと見られており、早速主人は杜氏(職工長のような役職)に彼を暇に出すようにと命じました。
その際主人は、与助に貯金させておいた、40円について考えを廻らていきます。と言いますのも、主人の家では労働者には毎月5円ずつ貯金をさせて預かっていたのです。そして主人は、与助が不義を働いた事をきっかけに、そのお金を自分のものにしようと企てていきます。
その後杜氏は言われた通り、与助を呼び出し暇を出す旨を彼に告げました。しかし与助も与助で、貯金の40円の事が気になる様子で、杜氏から主人にお金はどうなるのか聞いて欲しいと言ってきました。ところが不正、不穏の行為を行った者に貯金はやれぬという理由から、没収される事になったのです。杜氏はこうして、些細な出来事から貯金を没収される様子を5,6度見てきました。そしてふとある不安を覚えます。彼もいつかは与助のような立場になるのではないのか、と考えたのです。ですがすぐに馬鹿馬鹿しいと忘れていきました。
結局、与助は貯金を貰えない儘解雇され、2、3日後、若い労働者達が小麦俵を積み換えていると、俵の間から帆前垂にくるんだザラメが出てきました。与作の隠したザラメです。彼らは笑いながらその砂糖を分けてなめました。そして杜氏もその相伴にあずかり、汚れた前掛けは洗濯し、自ら身に付けることにしたのでした。
この作品では、〈砂糖泥棒に暇を出す立場にありながらも、自身にもその兆しを見せる、ある杜氏の姿〉が描かれています。
自分の家族のためとは言え泥棒を働いた与作は其の侭解雇され職を失い、お金にがめつい主人は彼に暇を与え、狡猾な杜氏は漁夫の利を得るという、一見するとなんとも平坦な作品に見えるかもしれません。ですが下記の箇所に注目して読むと、こうした事が与助を直接裁いた杜氏自身にも振りかかる予兆があることに気が付きます。
杜氏は、こういう風にして、一寸した疵を 突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって 来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。
彼は自分が与助に暇を与えようという話をしている中で、ちらりとそうして誰かに解雇される自分の姿を彼を通して見てしまったのです。しかしすぐにもみ消して自分の役目に集中していくわけなのですが、物語の終盤で、杜氏にもそうした出来事が未来に十分起こり得る事が見て取れるでしょう。
そもそも与助は主人の倉から勝手に砂糖を持ちだしたところを抜け目ない主人に見られたからこそ解雇されました。そして、杜氏は与助が解雇された後、たまたま若い労働者が見つけたザラメを分けてもらい、前掛けを自分のものにしていますが、その経緯は兎も角、与助と同じ行為をしています。
これら2点から、杜氏の未来にも近い将来において暇を出される事が示唆されているのです。本人は上手く2人を出し抜いたつもりでしょうが、条件が整っているだけに、読者としては彼の未来を暗い気持ちで冷静に見つめずにはいられない事でしょう。
その際主人は、与助に貯金させておいた、40円について考えを廻らていきます。と言いますのも、主人の家では労働者には毎月5円ずつ貯金をさせて預かっていたのです。そして主人は、与助が不義を働いた事をきっかけに、そのお金を自分のものにしようと企てていきます。
その後杜氏は言われた通り、与助を呼び出し暇を出す旨を彼に告げました。しかし与助も与助で、貯金の40円の事が気になる様子で、杜氏から主人にお金はどうなるのか聞いて欲しいと言ってきました。ところが不正、不穏の行為を行った者に貯金はやれぬという理由から、没収される事になったのです。杜氏はこうして、些細な出来事から貯金を没収される様子を5,6度見てきました。そしてふとある不安を覚えます。彼もいつかは与助のような立場になるのではないのか、と考えたのです。ですがすぐに馬鹿馬鹿しいと忘れていきました。
結局、与助は貯金を貰えない儘解雇され、2、3日後、若い労働者達が小麦俵を積み換えていると、俵の間から帆前垂にくるんだザラメが出てきました。与作の隠したザラメです。彼らは笑いながらその砂糖を分けてなめました。そして杜氏もその相伴にあずかり、汚れた前掛けは洗濯し、自ら身に付けることにしたのでした。
この作品では、〈砂糖泥棒に暇を出す立場にありながらも、自身にもその兆しを見せる、ある杜氏の姿〉が描かれています。
自分の家族のためとは言え泥棒を働いた与作は其の侭解雇され職を失い、お金にがめつい主人は彼に暇を与え、狡猾な杜氏は漁夫の利を得るという、一見するとなんとも平坦な作品に見えるかもしれません。ですが下記の箇所に注目して読むと、こうした事が与助を直接裁いた杜氏自身にも振りかかる予兆があることに気が付きます。
杜氏は、こういう風にして、一寸した疵を 突きとめられ、二三年分の貯金を不有にして出て行った者を既に五六人も見ていた。そして、十三年も勤続している彼の身の上にもやがてこういうことがやって 来るのではないかと、一寸馬鹿らしい気がした。
彼は自分が与助に暇を与えようという話をしている中で、ちらりとそうして誰かに解雇される自分の姿を彼を通して見てしまったのです。しかしすぐにもみ消して自分の役目に集中していくわけなのですが、物語の終盤で、杜氏にもそうした出来事が未来に十分起こり得る事が見て取れるでしょう。
そもそも与助は主人の倉から勝手に砂糖を持ちだしたところを抜け目ない主人に見られたからこそ解雇されました。そして、杜氏は与助が解雇された後、たまたま若い労働者が見つけたザラメを分けてもらい、前掛けを自分のものにしていますが、その経緯は兎も角、与助と同じ行為をしています。
これら2点から、杜氏の未来にも近い将来において暇を出される事が示唆されているのです。本人は上手く2人を出し抜いたつもりでしょうが、条件が整っているだけに、読者としては彼の未来を暗い気持ちで冷静に見つめずにはいられない事でしょう。
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