2012年3月27日火曜日

出世ー菊池寛

ある時、譲吉は1、2年ぶりに馴染みの図書館に向かっていました。そこは彼にとって、東京に馴染めず、お金がなく苦労していた頃、よく足繁く通った思い出の場所でもあります。そんな彼は道中、ふとそこで働いていた2人の下足番の事を思い出します。当時、彼らは図書館の薄暗い土足場で、口も開かず黙々と閲覧者の下駄を扱っていたのでした。譲吉はそんな彼らの姿を見て、日頃から同情をよせていました。そして彼はその同情心から、ある問題を発見してしまいます。それは今の彼はかつての貧しい学生ではなく、職業を得た立派な社会人だということです。恐らく、あのような生活から逃れられない彼らが、今の自分を見てどのような気持ちになるだろうと考えずにはいられません。果たして、2人の下足番は今どうしているのでしょうか。

この作品では、〈お互いの出世がもらたした、再会の感動〉が描かれています。

譲吉の予想は大きく裏切られる事になります。なんと下足番だったうちの一人は出世して、閲覧権売場の窓口にいました。この時、譲吉は当時から影で見ていた彼の苦労から、それは彼にとって、「判任官が高等官になり勅任官になるよりも、もっと仕甲斐のある出世」であろうと考え、心から喜びます。更にその下足番が下足番をしていた頃は、彼もまた学生として苦労していた頃だったので、自分の心の内だけでも、こうして2人が出世した事にシンパシーを感じ、嬉しがらずにはいられません。まさにこの感動は譲吉にとって、どちらか一方が出世していては味わえない、特別なものだった事でしょう。

2012年3月25日日曜日

勲章を貰う話ー菊池寛

士官候補生であるイワノウィッチは、ワルシャワで軍務についていた頃、白鳥座の歌手、リザベッタ・キリローナと恋いに落ちます。ところが、彼の恋敵であり彼の上官でもあるダシコフ大尉はこれをよしとはせず、「いいか、勲章(サン・ジョルジェ十字勲章のこと)の申請は、わしの思う通りになるのだ。どうだイワノウィッチ君! 安っぽい歌劇の歌手よりも、十字勲章の方を選んだらどんなものだ」と、自身の権力を使ってそれを阻止しようとするのです。しかし、正義感あるイワノウィッチはこの態度に激怒し、彼を罵りその申し出を拒否します。
ある時、それは戦火がワルシャワに近づいてきた頃、今度の戦争で生き残れないかもしれないと考えたイワノウィッチは、リザベッタに最後の別れを告げようと彼女のもとを訪れます。しかし、そこで彼は自分と恐らくは同じ事を考えていたであろうダシコフと鉢合わせしてしまうのです。そして取っ組み合いの末、彼はダシコフとリザベッタを射殺してしまいます。その後、彼はその罪を償う為に戦地へと赴き、やがてその功績は讃えられサン・ジョルジェ十字勲章を受け取ることとなるのです。

この作品では、〈自身の罪の償いの為に戦場に赴くあまり、かえって戦場そのものに価値を見出してしまった、ある男〉が描かれています。

もともと自分なりの正義感を持っていたイワノウィッチははじめ、ダシコフ大尉から勲章と引き換えに彼女を諦めよと言われた時、「権力と手段とで奪って行こうとするダシコフの態度に対する憎悪が、旺然と湧」きあがり、激しく拒否をしていました。この時、彼の勲章に対する印象というものも、当然いいものではなかったでしょう。しかし、いざサン・ジョルジェ十字勲章を受け取ることが決まった時、「今日、ニコライ太公からサン・ジョルジェ勲章を貰う欣びを少しでも傷つけるものではない。」と、なんとそれを喜んでいるではありませんか。一体、彼の勲章に対する印象はどこでどのように変わっていったのでしょうか。
イワノウィッチの心情が大きく変わった場面と言えば、言うまでもなくダシコフとリザベッタを殺してしまうシーンにあります。この時、彼は自殺を考えますが、「拳銃よりも、敵の巨砲の方が自殺の凶器としてはどれだけたのもしいものかも知れない」と、考えはじめます。そして同時に彼は、戦地に赴くことが自分の償いになるとも考えていました。こうして彼は自分で死ぬよりも他人に殺してもらう方が良いという消極面から、また戦場で活躍することが自分の罪の償いであり、自分の価値を高めるという積極面から戦場で戦うことを決意していくのです。またこれらの彼の心情は、「彼は、勇敢に戦い、自分の生命をできるだけ高価に売ることを考えた。」という一言に集約され、表現されています。そしてこの時はどちらかと言えば、上官と愛するものを自分の手で殺してしまった悔恨から、消極面が彼をつき動かしていたのでしょう。ですが、いざ戦場で戦いはじめると、次第に消極面が薄れていき、今度は「多くの人を殺して、価値を高める」という積極面が彼を殺戮へと駆り立てていきます。そして彼のそうした功績の末に、彼は勲章を貰うのですから、その時の彼には勲章が彼の価値そのものにうつった事でしょう。こうしてイワノウィッチは戦場への印象を変えていき、勲章を貰うことに対して喜びを感じていくようになっていったのです。

2012年3月24日土曜日

吉良上野の立場ー菊池寛

浅野内匠頭は京都から接待役の勅命を受け、その費用をどうきりつめようか苦心していました。彼としては、千二百両かかる費用をどうにかして七百両に抑えたいようです。しかし、その考えに待ったをかける人物がいました。肝煎りの吉良上野です。彼によると、それは慣例を破る行為である。ここは慣例に則り、前年よりも高い金額で勅使を接待すべきだといいます。ですが、どうしても費用を抑えたい内匠頭は、彼の助言を全く聞こうとしませんでした。
そして勅使の接待の前日、その接待方が少し変わった事を内匠頭は聞きのがしてしまったので、その場にいた吉良にそれを聞くことにします。ところが吉良は、先日彼が自分の助言を聞き入れなった事を理由に、教えることを拒みます。その挙句、癇癪を起こした内匠頭は刀を抜いて襲いかかりますが、同じくその場にいた梶川にそれを阻止されてしまうのです。やがて、乱心した彼はその場で切腹することになります。ところが、これを世間の人々は、殿中で切りつけるには、よくよく堪忍のできぬことがあってのことだろうと同情し、吉良を非難しました。そして浅野浪士の方でも、浅野の怨みを晴らす為、彼を討とうとしています。こうして、完全に世間から悪者扱いされる事になった吉良は、その命まで狙われてしまいます。ですが、彼は今逃げては世間の噂を肯定する事になり、それが気に食わないという理由から、その場を離れようとはしませんでした。結果、彼は赤穂浪士に打たれてしまい、悪者のままこの世を去ってしまったのです。
この作品では、〈世間の噂に反抗しようとするあまり、かえって事実として世間に知らしめてしまった、ある男〉が描かれています。
吉良は、世間の内匠頭に関する噂と自分に対する評価に関して、あまりにも事実とかけ離れている為に不快感を示していました。その思いから、当然彼は、自身にかけられた不当な汚名を晴らしたいと考えていたのでしょう。そして、その思いが強いあまりに彼は浅野浪士の敵討ちの噂を聞いた時、決して逃げようとはしませんでした。彼曰く、「わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ」というのです。彼のこうした行動は、まさに世間の噂に対する反抗であり、噂が事実でないことを示す態度でもありました。ですが、彼はこうした態度をとったことにより、結局赤穂浪士に打たれてしまい、真実を伝える機会を永遠に失ってしまいます。もしこの時、彼が噂に反抗することよりも真実を伝える事を優先してその場から逃げていれば、このような結果にならなかったかもしれません。しかし噂に反抗するとを優先したばかりに、彼は噂に反抗するどころか、かえって振り回されてしまったのです。

2012年3月22日木曜日

義民甚兵衛ー菊池寛(未完成)

農夫である「甚兵衛」は、自身が不具者(かたわもの)であり、また足に障害を持っていた為に他の家族から人間として扱われておらず、他の兄弟よりも劣った生活を強いられていました。
不作が続いた年のある時、厳しい年貢の取り立てから人々は一揆を起こします。それは甚兵衛の家も巻き込み、家の中から一人、一揆の参加者を選出しなければならないと告げられます。そこで他の兄弟を守るため、継母である「おきん」は彼らの身代わりと言わんばかりに、甚兵衛を一揆に参加させることにしました。
しかしこの一揆の事情は急転し、甚兵衛が一揆に参加して10日後に終焉の兆しが挿し込みます。彼らに年貢の取り立てをしていたお上は、この度の一揆の出来事については、「松田八太夫」に石を投げた下手人を差し出すことで、帳消しにするというのです。これに対して、おのおので石を投げていた人々は動揺を隠せません。早速、仲間同士で小競り合いをはじめます。そんな中、甚兵衛だけが自分が石を投げたことを正直に話し、役人に引っ捕えられてしまいます。こうして、甚兵衛とその一家は磔にされ、村の尊い犠牲となってしまったのです。

2012年3月19日月曜日

恩讐の彼方にー菊池寛

「市九郎」は主人である「三郎兵衛」の妾と非道の恋をした為に、主人の怒りをかい刀で斬りかかられます。ですが自身の命惜しさから、彼は脇差で主人を刺してしまいます。その後、彼は主人の妾であった「お弓」に従い、美人局(つつもたせ)、摂取強盗等を稼業として生計をたてはじめます。
そんなある時、市九郎は2人の夫婦をお弓の命によって手にかけてしまいます。この時、彼はこの夫婦を殺めてしまったことを後悔していましたが、お弓は彼とは対照的に、彼らが身につけていた櫛(くし)等の方が気になる様子。こうした彼女の浅ましさに嫌気がさし、市九郎はお弓のもとを離れることにします。
やがて、彼はこれまでの悪行を悔いるようになりはじめ、次第に真言の寺への得度を決意していきます。得度した彼は「了海」と呼ばれ、その後仏道修行に励んでいきます。そして、懺悔の心から人々を救いたいと考えていた市九郎は、やがて諸国雲水の旅出ます。その中で彼は、山の絶壁にある険しい道、「鎖渡し」という難所を渡ることとなります。そしてその難所を渡りきった時、彼は人々がここを渡らなくてもいいように、トンネルを掘ることを決心します。というのも、それこそが、彼にとって自身の大願を成就する為の難業でもあったのです。
穴を掘りはじめて19年、トンネルの完成も間近になった頃、彼のもとにある男がやってきました。それは市九郎が殺した主人、「三郎兵衛」の息子である「実之助」でした。彼は父を殺した人間はかつては父の下僕であったことを知ると、復讐を誓い、はるばる市九郎を追ってやってきたのです。彼と対峙した時、市九郎も実之助にその命を明け渡そうと考えていました。しかし、その時市九郎と共に働いていた石工の頭領が、20年に近い歳月を穴を掘ることに費やし、その完成を間近にして果てていくのは無念だろうから、トンネルの完成まで待ってはくれないかと、実之助に提案します。敵とはいいながらこの老僧の大誓願を遂げさしてやるのも、決して不快なことではないと考えた実之助は、この提案を受け入れることにします。こうして彼は市九郎の大願が成就する時を彼と共に待つにつれて、彼の内にある菩薩の心を目の当たりにし、やがては大願を果たした感動を共に分かち合うことなるのです。

この作品では、〈自分の目的の為に、穴を掘り続けた一人の男の姿〉が描かれています。

この作品はタイトルの通り、市九郎に対し復讐に燃えていた実之助が彼と触れ合うことでその怨みを忘れ、やがては市九郎の大願成就を共に喜びを分かつところを軸として描かれています。では、そうした実之助の心の変化を、彼の目的と市九郎のそれとを比較することで見ていきましょう。
まず市九郎の方ですが、彼は何もはじめから、人々を救いたいという目的をもっていたわけではありません。彼は、生きる為に主人を殺し、生きるために盗みを働き、生きる為に旅の夫婦を殺していました。そして、それらは自分の意思からではなく、「彼は、自分の意志で働くというよりも、女の意志によって働く傀儡のように立ち上ると」、「初めのほどは、女からの激しい教唆で、つい悪事を犯し始めていた」などの表現からも理解できるように、彼の行動の裏には、常にお弓の意思が働いていました。つまり彼は、「生きる為に(目的)、お弓に従い(主体)、盗みを働いていた、人を殺していた(手段)」(a)のです。
しかし、彼女に嫌気がさして自分のしてきた事に後悔を感じはじめると、彼は真言の寺に得度し、仏道修行に励みはじめます。すると、今度は懺悔の気持ちから、真言の「仏道に帰依し、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心」という教えに従い、難渋の人を見ると手を引き腰を押してその道中を助け、たま病に苦しむ老幼を負います。こうした彼の心の変化から、上記にある括弧の内容も自然と変わり、「懺悔の為に、仏道に従い、人々を救った」(b)となります。
ですが、彼はそうした人助けすらも、自分の犯してしまった罪の前では釣合いがとれないものと考え、より大きな苦難をさがしはじめます。その末、発見したものが鎖渡しの難所でした。この難所を発見した時、彼は早速自身の大願の為、穴をほりはじめます。そして、槌を振っている時の彼には人を殺した時の悔恨も、極楽に生まれようという欣求もありませんでした。そこには「晴々した精進の心」だけがありました。この彼の手段、及び心の変化から、括弧の中身は「人々を救う為に、自分に従い、穴を掘った」(c)となるでしょう。
さて、ここまでの市九郎の行動や心の変化を、更に括弧書きした箇所を中心に整理してしていきます。括弧の中身も分かりやすいように、矢印をつけてもう一度下に記しておきます。

「生きる為に、お弓に従い、盗みを働いていた、人を殺していた」(a)

「懺悔の為に、仏道に従い、人々を救った」(b)

「人々を救う為に、自分に従い、穴を掘った」(c)


次に、市九郎が具体的にどのようにして括弧の中身を変化させていったのかを見ていきましょう。まず(a)では、彼ははじめは確かに目的の為に主人を殺すという手段に至りました。ですが、美人局、強請、殺人とその行動がエスカレートするにつれて、彼の中でいつしか手段が目的よりもその意味を大きくしていったことが理解できます。またその行動の主体が、彼自身ではなく、お弓であった事も見逃してはなりません。ですが、こうして手段を優先していくにつれて、その目的を見失い、自分の行動に自信が持てなくなっていってしまいます。そして、彼はある夫婦を殺めたことをきっかけに、罪の意識を感じお弓のもとを離れていきます。
そしてお弓から離れた彼は、その罪をどうにかして悔い改めたいと考えはじめます。そこで彼は、宗教的な光明にすがり、その手段を模索しはじめます。やがて、彼は真言の教えに従い、人々を救うことが自身の懺悔につながる事を学びます。ここまでが(b)までの過程となります。また、(b)では(a)とは違い、市九郎は目的の為に手段を用いようとしています。ですが、この時点でもやはり、その主体は自分ではありませんでした。
しかし(c)、つまり穴を掘りはじめてからの彼は違いました。それは文中の、「人を殺した悔恨も、そこには無かった。極楽に生れようという、欣求もなかった。ただそこに、晴々した精進の心があるばかりであった。」という箇所からも理解できるように、穴を掘っている時の市九郎は、宗教的な教えのためにそうしているのではありません。彼は穴を掘り人々を救う行動をしている事に対して喜びを感じているのです。ここから、主体はいつしか仏道ではなく、自分そのものになっていったのでしょう。ですから、彼は作品の中で周囲の人々になかなか穴を掘ることに対して理解されず、また理解されたかと思えば再び彼のもとから離れていくこともありましたが、そうした人々の心の変化に一切動じず、ひたすら穴を掘ることが出来たのです。また、その目的も、「懺悔のため」という消極的だったものが、「人々の為」という積極的なものへと変化しています。これもまた、その主体が自分になったことからくる変化でしょう。こうして彼は、その主体を大きく変えていくことで、目的、手段を変えていき、自身の大願を成就させることが出来たのです。
では、一方の実之助の方はどうだったのでしょうか。彼は、「父の無念の為に、自分に従い、復讐する」ことを決意していました。ところが、彼は長年の穴掘りによって傷みきった市九郎の肉体を見た時、その復讐心が弱まってしまいます。そこで彼は、「しかしこの敵を打たざる限りは、多年の放浪を切り上げて、江戸へ帰るべきよすがはなかった。まして家名の再興などは、思いも及ばぬことであったのである。」と、復讐の目的を他のものに変えようとします。そうすることで、彼はどうにかして復讐を果たそうと考えたのです。こうした考えから、彼はその目的よりも、手段にこそその重きをおいていったことにより、その目的を見失ってしまいます。またこれは、はじめの市九郎の(a)の考えと同じ構造を持っています。そして、実之助もまた自分の行動に自信が持てなくなってしまいます。そして、そんな自分と懸命に人々の為に穴を掘る市九郎を比較した時、彼を斬る気にはどうしてもなれず、その復讐心を消し去り、やがては彼を支持するようになっていったのです。

恩讐の彼方にー菊池寛(メモ書き)

市九郎と実之助との夢の比較

◯市九郎
「生きる為に(目的)、お弓に従い(主体)、盗みを働いていた、人を殺していた(手段)」(a)

「懺悔の為に、仏道に従い、人々を救った」(b)

「人々を救う為に、自分に従い、穴を掘った」(c)

目的と手段の優先順位の変化
主体の変化

◯実之助
「復讐の為に(目的)、 市九郎を殺そうとした(手段)」

一般性
自らの夢の為に穴を掘り続けた、一人の男の姿

2012年3月16日金曜日

屋上の狂人(修正版)

身体に障害を持っている狂人、「勝島義太郎」は毎日屋根の上に上がって雲を眺めていました。彼曰く、その中で金毘羅さんの天狗や天女等の神、或いはそれに類するものたちが踊っており、自分を呼んでいるというのです。そうした彼の様子に、父親である「義助」は手を焼いていました。
そんなある時、彼らの家の隣に住んでいる「藤作」がやってきて、昨日から島に来ている「巫女」に義太郎を祈祷してもらってはどうかと、義介に提案します。もともと義太郎の狂人的な性質は狐にとり憑かれている為だと考えていた彼は、早速巫女に祈祷を頼みます。そして彼女が祈祷をはじめると、なんと神様が彼女の身体にのりうつり、青松葉に火をつけて義太郎をいぶしてやれというお告げをしました。そこで義助は彼を可哀想に思いながらも、彼の顔を煙の中へつき入れます。そんな中、義太郎の弟、「末次郎」がたまたま家へと帰ってきました。彼は義助から一切を聞くと憤慨し、燃えている松葉を足で消してました。そして、自身を巫女と名乗っていた女を「詐欺め、かたりめ!」と罵倒し、追い払います。こうして兄は弟に救われ、再び屋根の上にあがります。そして兄弟は互いをいたわりながら、夕日を眺めるのでした。

この作品では、〈現実とかけ離れ、神々の世界に憧れを抱くあまり、かえって自分がそのような人物になってしまった、ある狂人への皮肉〉が描かれています。

この作品では、狂人である義太郎をめぐって、物語は展開していきます。そしてその中で重要になってくるものが、神の存在です。というのも、巫女と名乗る女は、自分は自分の身体に金毘羅さんの神様をおろすことができ、それによってお祓いができるのだと主張していました。そして、こうした彼女の主張を周りの人々は信じ、彼女の言うがままに義太郎の顔を煙におしつけてしまいます。ところが、末次郎だけはそんな彼女の胡散臭さを一見して見破り、「あんなかたりの女子に神さんが乗り移るもんですか。無茶な嘘をむかしやがる。」と述べています。そしてこのように断定している彼の主張の裏には、どうやらはっきりとしたそれはなくとも、神というものの像が朧げながらもあるようです。物語のラストで、彼は兄と話している最中、「そうやろう、あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と言っています。つまり、彼は狂人たる兄の中に、彼が考えている神の一面を認めているのです。
では、彼は兄のどのようなところに神的な性質を認めているのでしょうか。そもそも、義太郎は屋根の上に登って、現実とはかけ離れた神の世界に憧れを感じるあまり、それが見えると発言していました。物語のラストでも、彼ははやり屋根に上がって、自分達とは違う世界の出来事を覗いています。そして、こうした義太郎と同じ見方を、違う立場から行なっている人物がいます。それが末次郎その人です。
現実と関わりを持ちながらも、そこで何が起こっていようと、またどれだけ自分が巻き込まれようとも、次の瞬間には自分の世界へと戻っていく兄に対して、末次郎は彼が全く別の世界を生きている印象を受けているからこそ、「あなな巫女よりも兄さんの方に、神さんが乗り移っとんや」と述べているのです。つまり彼が考えている神とは、巫女の神の様に現実に干渉せず、関心をよせず、ただ自分達の世界に没頭しているものということになります。ですから、彼ははじめから巫女の主張を信じず、兄を救うことが出来たのです。