人々が観音様のもとに参詣している最中、ある青侍がふと思いついたように、主の陶器師の老人に「不相変、観音様へ参詣する人が多いようだね。」と声をかけてきました。そこから2人の会話ははじまります、やがて、その時観音様がもたらしてくれる運に関して興味をもっていた青侍は、老人から運について聞き出しはじめます。すると老人は神仏の運には良し悪しがあり、それがこの青侍には分からないだろうと言いました。さて、運の良し悪しとはどういうことでしょうか。何故その良し悪しがこの青侍には分からないのでしょうか。
この作品では、〈あれかこれかと考えてしまった為に、ものごとの判断を見誤っているある侍〉が描かれています。
まず老人はその後、ある観音様のお告げを聞いたある女性のエピソードを持ちだして、具体的に運の良し悪しの中身を語りはじめます。その女は34年前(その時女は娘の時分でした)に観音様に安楽に暮らせるよう、お籠りし願かけを行っていました。その時娘は母親を亡くしており、経済的に苦しかったのです。その娘が37日後の夜、神仏から『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』というお告げを授かります。そして娘はその帰路、やはり神仏のお告げ通りの事態が起き、やがてその男から夫婦になってくれと申し込まれます。彼女はこれを観音様の思し召しだと考えたため、首を縦にふりました。こうして二人は夫婦となりました。その時、男は娘に綾を十疋に絹を十疋差し出しました。ですが、この男はそもそも泥棒であり、娘に渡したそれらは盗んだものだったのです。それを知った娘は男と住んでいた塔から、男の炊女をしていたと思われる見張りのお婆さんを殺して逃げ出しました。この時、娘は男からもらっていた綾十疋に絹十疋を持って逃げてきたたので34年たった今でも不自由なく暮らしています。ですが、彼女は男が自身の罪によってお縄になっている姿を見て、男に惚れていたわけではないが急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったというのです。結果的に娘は確かに生活の面では豊かになりました。ですが、その代償として、盗人が夫となり逮捕され、更には自身が殺人者にまでなってしまったのです。これが老人の運の良し悪しの悪しの中身なのです。
しかし、青侍はこの話を聞いてなんと「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」等と考えているのです。なぜ彼はこう考えているのでしょうか。彼は、この話を聞いて「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」という台詞からも理解できるように、生活的に不自由なく暮らせることと、盗人の夫を持つことと人殺しの罪を背負って生きる苦しみを天秤にかけて、前者の利益の方が優っていると考えてこう述べているのです。
ですが、ここで重要なことは天秤に快楽と苦しみを天秤にかけることではありませえん。むしろ両方つきまとってくるものなのですから、この苦しみは自分にこれから先自分をどういう風に変えていくのか、またその苦しみ自体に耐えれるのかということの方が大切なのです。そもそもこの侍の最大の失敗は、生活的には不自由なく暮らしているという結果だけを見ていることにあります。問題はその結果にいった過程こそが結果をつくりあげており、その結果が娘の34年の過程をつくっているというとこに注目しなければならいのです。
2011年7月25日月曜日
2011年7月21日木曜日
渡り鳥ー太宰治
晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合い、もみ合いしながらぞろぞろ出て来て、やがておのおのの家路に向って、むらむらぱっと飛び立つ中に、ある無帽蓬髪の、ジャンパー姿で、痩せて背の高い青年の姿があります。彼は「ベートーヴェンを聞けば、ベートーヴェンさ。モオツアルトを聞けば、モオツアルトさ。」というよに、今読んだり聞いたりしたもの、会う人によって、自身の趣味をコロコロと変えていきます。果たして彼にとって趣味とはどのようなものなのでしょうか。
この作品では、〈自分自身を他の何かに委ねてしまった、ある青年〉が描かれています。
はじめに、上記の問いに答えるにあって、青年の行動原理にある、「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という言葉の意味について考えていきましょう。まず、青年は数多の知り合いに会えば声をかけ、彼等の趣味趣向に自分を合わせていきます。ですが、一度だけ他人の趣味に自分を合わせなかった場面があります。それはある文学青年が声をかけた時でした。彼は文学青年に対して、「つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。」と、明らかにそれまで出会った人々とは違った印象を持ち、対応をします。ですが、文学青年の「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんですがね、つき合ってくれませんか。どこか、あなたのなじみの飲み屋でもこの辺にあったら、案内して下さい。」という台詞を聞いた途端、彼の態度は一転し、文学青年への印象を「面のぶざいくなのに似合わず、なかなか話せる男」と改めているではありませんか。実は、彼は知り合いを見かければ声をかけていたのは、こうして他人のお金を目当てに食事をするためだったのです。つまり、彼はその利益(お金)を得るための手段として、彼は趣味を使い話を合わせていたのでした。だからこそ、彼にとって趣味そのものはどうでもいいのであり、その中身すらもころころと帰ることが出来たのです。
そして、この彼の趣味を手段として用いていることに、私たちは少なからず不快感を感じることでしょう。そもそも趣味とは言うまでもなく、手段として用いるものではありません。私たちが成長の過程の中で様々な影響を受け、やがてそこから好きなものとそうでないものが派生し、趣味と呼ばれるものになっていくのです。かなり極端な言い方をすれば、幼少期にお母さんと一緒に積み木遊びをした子供がいたとします。その子供は材木を扱うことに興味を示し、やがて自ら木で玩具をつくりだし、それが大人に近づくにつれて日曜大工という立派な趣味になっていくのです。このように趣味とは自分が歩んできた歴史が含まれているものなのです。ですが、そういったものがあるにも拘らず、一切取り払い「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という論法を採用してしまっている青年に対して、私たちは不快感なり不気味さなりを感じずにはいられないのです。それは、それまであった自分の歩んできた歴史を排除し、他の何かに自分を委ねる行為なのですから。
この作品では、〈自分自身を他の何かに委ねてしまった、ある青年〉が描かれています。
はじめに、上記の問いに答えるにあって、青年の行動原理にある、「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という言葉の意味について考えていきましょう。まず、青年は数多の知り合いに会えば声をかけ、彼等の趣味趣向に自分を合わせていきます。ですが、一度だけ他人の趣味に自分を合わせなかった場面があります。それはある文学青年が声をかけた時でした。彼は文学青年に対して、「つまらん奴と逢ったなあ。酔っていやがる。」と、明らかにそれまで出会った人々とは違った印象を持ち、対応をします。ですが、文学青年の「今夜これから、残金全部使ってしまうつもりなんですがね、つき合ってくれませんか。どこか、あなたのなじみの飲み屋でもこの辺にあったら、案内して下さい。」という台詞を聞いた途端、彼の態度は一転し、文学青年への印象を「面のぶざいくなのに似合わず、なかなか話せる男」と改めているではありませんか。実は、彼は知り合いを見かければ声をかけていたのは、こうして他人のお金を目当てに食事をするためだったのです。つまり、彼はその利益(お金)を得るための手段として、彼は趣味を使い話を合わせていたのでした。だからこそ、彼にとって趣味そのものはどうでもいいのであり、その中身すらもころころと帰ることが出来たのです。
そして、この彼の趣味を手段として用いていることに、私たちは少なからず不快感を感じることでしょう。そもそも趣味とは言うまでもなく、手段として用いるものではありません。私たちが成長の過程の中で様々な影響を受け、やがてそこから好きなものとそうでないものが派生し、趣味と呼ばれるものになっていくのです。かなり極端な言い方をすれば、幼少期にお母さんと一緒に積み木遊びをした子供がいたとします。その子供は材木を扱うことに興味を示し、やがて自ら木で玩具をつくりだし、それが大人に近づくにつれて日曜大工という立派な趣味になっていくのです。このように趣味とは自分が歩んできた歴史が含まれているものなのです。ですが、そういったものがあるにも拘らず、一切取り払い「◯◯と言えば◯◯、△△と言えば△△」という論法を採用してしまっている青年に対して、私たちは不快感なり不気味さなりを感じずにはいられないのです。それは、それまであった自分の歩んできた歴史を排除し、他の何かに自分を委ねる行為なのですから。
2011年7月19日火曜日
夜だかの星ー宮沢賢治
蛙のように口が大きく、味噌を塗ったような顔をもつ鳥、夜だかは、その風貌から仲間の鳥から蔑まれ忌み嫌われて生きてきました。そんな夜だかはある日、鷹から自分と同じ名前を含んでいることを理由に、名前の改名を迫られました。更に鷹はそれができなければ、彼を噛み殺してしまうと脅してくるではありませんか。そして思い悩んだ挙句、夜だかは遠くの空の向こうへ向かうことを決心するのです。さて、彼は何故このような決心をしたのでしょうか。
この作品では、〈個としての自分の存在を命をかけて証明した、ある鳥〉が描かれています。
まず、物語を追いながら夜だかの立ち位置を整理してみましょう。彼はその他の鳥達から外見が劣っているという理由から、鳥の世界では最下の立場にありました。更に彼は鷹に名前の改名を迫られたことで、「夜だか」という存在すら否定されたのです。そして悩んだ末に彼は、何故か星と同じところまで高く飛ぶことを決心します。そして彼は自分の力ではそこまで行くことができないと考え、星々に自分をそこに連れていってくれと頼んでみました。ですが、そこでも「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。」、「星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ。」等と、今度は鳥という存在そのものを否定されてしまいます。しかしそれでも夜だかは、空高く飛ぶことを諦めず、遂には星となることが出来たのです。
さて、ここまで整理すると大きな問題がひとつ残ります。それは一体彼は何故星になる必要があったのか、ということです。この問題を解決する大きなヒントは「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。」という台詞にあります。彼はどんなに仲間から蔑まされても、馬鹿にされても、「ただ一つ」の自分というものの存在に目を向け、自分だけでもその価値を肯定し続けてきました。その自分が鷹に殺されることによって、大きく否定されることが何よりも辛いと述べているんのです。だからこそ、彼は自分の存在を証明すべく、自分よりも大きいと思われる星々のもとに行こうと考えたのです。
そしてこの夜だかの悩みというものは、現実を生きる私たちにもよくあることのはずです。例え人間全体の中のちっぽけな一人に過ぎずとも、また今自分の存在が大勢の誰かになかなか認められずとも、この夜だかのようにあなたも私も「ただ一つ」の自分でしかないのです。
この作品では、〈個としての自分の存在を命をかけて証明した、ある鳥〉が描かれています。
まず、物語を追いながら夜だかの立ち位置を整理してみましょう。彼はその他の鳥達から外見が劣っているという理由から、鳥の世界では最下の立場にありました。更に彼は鷹に名前の改名を迫られたことで、「夜だか」という存在すら否定されたのです。そして悩んだ末に彼は、何故か星と同じところまで高く飛ぶことを決心します。そして彼は自分の力ではそこまで行くことができないと考え、星々に自分をそこに連れていってくれと頼んでみました。ですが、そこでも「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。」、「星になるには、それ相応の身分でなくちゃいかん。又よほど金もいるのだ。」等と、今度は鳥という存在そのものを否定されてしまいます。しかしそれでも夜だかは、空高く飛ぶことを諦めず、遂には星となることが出来たのです。
さて、ここまで整理すると大きな問題がひとつ残ります。それは一体彼は何故星になる必要があったのか、ということです。この問題を解決する大きなヒントは「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。」という台詞にあります。彼はどんなに仲間から蔑まされても、馬鹿にされても、「ただ一つ」の自分というものの存在に目を向け、自分だけでもその価値を肯定し続けてきました。その自分が鷹に殺されることによって、大きく否定されることが何よりも辛いと述べているんのです。だからこそ、彼は自分の存在を証明すべく、自分よりも大きいと思われる星々のもとに行こうと考えたのです。
そしてこの夜だかの悩みというものは、現実を生きる私たちにもよくあることのはずです。例え人間全体の中のちっぽけな一人に過ぎずとも、また今自分の存在が大勢の誰かになかなか認められずとも、この夜だかのようにあなたも私も「ただ一つ」の自分でしかないのです。
2011年6月8日水曜日
メリイクリスマスー太宰治
ある年の12月のはじめ、笹井は自身が最も信頼をおいている女性の娘、シズエ子と偶然再会を果たします。そして彼は嬉しさのあまり、早速彼女の家を訪問しようとします。ですが、その提案にシズエ子は次第に元気をなくしている様子。この反応を見て笹井は彼女は自分に惚れており、そのために笹井と親しい仲である自分の母に嫉妬していると考えはじめます。またそう考えていくうちに、次第に笹井自身もシズエ子に惹かれていきます。ですがこの考えは、後に彼のとんでもない勘違いであったことが判明します。では、彼は何をどのように勘違いしてしまったのでしょうか。
この作品では、〈事実を自身の都合のいいように結びつけてしまった、ある男〉が描かれています。
まず、笹井はシズエ子の母の話をした途端、彼女の変化を見てとって、どういうわけか、「私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。」と彼女が自分に惚れていると思い込み、更にはそうした思い込みによって彼自身も彼女に惹かれていきます。ですが、実際はそうではなく、彼女は広島の空襲で母を亡くしており、その為に悲しい表情を浮かべていたのです。まさに笹井の失敗は、自身の都合のいいように事実を結びつけてしまったことにあります。そしてそのめでたい考えを自覚するあまり、彼は敗戦した日本で、「メリイ、クリスマス。」と騒いでいるアメリカ人と自分を重ね、思わず笑ってしまったのです。
この作品では、〈事実を自身の都合のいいように結びつけてしまった、ある男〉が描かれています。
まず、笹井はシズエ子の母の話をした途端、彼女の変化を見てとって、どういうわけか、「私はいよいよ自惚れた。たしかだと思った。母は私に惚れてはいなかったし、私もまた母に色情を感じた事は無かったが、しかし、この娘とでは、或いは、と思った。」と彼女が自分に惚れていると思い込み、更にはそうした思い込みによって彼自身も彼女に惹かれていきます。ですが、実際はそうではなく、彼女は広島の空襲で母を亡くしており、その為に悲しい表情を浮かべていたのです。まさに笹井の失敗は、自身の都合のいいように事実を結びつけてしまったことにあります。そしてそのめでたい考えを自覚するあまり、彼は敗戦した日本で、「メリイ、クリスマス。」と騒いでいるアメリカ人と自分を重ね、思わず笑ってしまったのです。
2011年5月29日日曜日
雨降り坊主ー夢野久作
ある時、太郎の父はお天気が続いて田んぼの水が乾上がっているため、稲が枯れないかどうか心配で毎日毎日空ばかりを見ていました。そんな父の姿を心配した太郎は、彼の為にテルテル坊主をつくることにしました。さて、太郎のテルテル坊主は無事雨を降らすことができるのでしょうか。
この作品では、〈テルテル坊主をあくまで物質として扱う大人と、心が宿っている生き物のように扱う子供の価値観の違い〉が描かれています。
結果的に、太郎がテルテルをつくったその晩、稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。ですが、残念ながら彼のてるてる坊主はその雨のために何処かへ流されてしまいました。
さて、ここで注目すべきは、その後の太郎と父とのテルテル坊主の扱いの違いにあります。まず太郎の方は「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」、「お酒をかけてやると約束していたのに」と、雨を降らせてくれたのはテルテル坊主であると信じており、そのテルテル坊主にご褒美を与えようとしています。彼は子供ながらのみずみずしい感性から、テルテル坊主を心をもった生き物のように扱っているのです。
一方父の方は、「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」という台詞からも理解できるように、彼の場合、テルテル坊主へのご褒美のお酒はあくまでついでのようなものであり、本心は太郎に対して何かしてあげたいと考えています。彼にとってはテルテル坊主はあくまで物質でしかありません。しかし、ただの物質というわけではなく、そのには太郎の気持ちが宿っていることを理解しています。だからこそ彼は、予めテルテル坊主にお酒を与える約束を太郎にしていたのです。
この作品では、〈テルテル坊主をあくまで物質として扱う大人と、心が宿っている生き物のように扱う子供の価値観の違い〉が描かれています。
結果的に、太郎がテルテルをつくったその晩、稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。ですが、残念ながら彼のてるてる坊主はその雨のために何処かへ流されてしまいました。
さて、ここで注目すべきは、その後の太郎と父とのテルテル坊主の扱いの違いにあります。まず太郎の方は「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」、「お酒をかけてやると約束していたのに」と、雨を降らせてくれたのはテルテル坊主であると信じており、そのテルテル坊主にご褒美を与えようとしています。彼は子供ながらのみずみずしい感性から、テルテル坊主を心をもった生き物のように扱っているのです。
一方父の方は、「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」という台詞からも理解できるように、彼の場合、テルテル坊主へのご褒美のお酒はあくまでついでのようなものであり、本心は太郎に対して何かしてあげたいと考えています。彼にとってはテルテル坊主はあくまで物質でしかありません。しかし、ただの物質というわけではなく、そのには太郎の気持ちが宿っていることを理解しています。だからこそ彼は、予めテルテル坊主にお酒を与える約束を太郎にしていたのです。
2011年5月26日木曜日
皮膚と心ー太宰治
「あの人」と今年の三月に結婚した「私」は、ある時自分の乳房の下に小豆粒程度の吹出物を発見します。元々自分自身の外見に全く自信が持てず、吹出物を何よりも嫌っていた彼女は、そこから更に自信を失い、遂には自身を「プロテチウト」と罵るようになっていきます。さて、では何故彼女はそこまで吹出物を嫌い、自信を失っていったのでしょうか。
この作品では、〈自身の劣等感こそが長所に繋がっていたものの、その劣等感を失った途端、その長所も失ってしまったある女性〉が描かれています。
まず、下記の一文はこの作品の一般性を表したものとなっています。
私が今まで、おたふく、おたふくと言って、すべてに自信が無い態を装っていたが、けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感触が、どんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智と関係ない。
つまり、彼女はこれまで自分自身の外見に全く自信が持てない一方、むしろその外見への劣等感こそが、謙譲、つつましさ等の長所に繋がっていると考えていました。またこの繋がりというのは、彼女が外見に「全く」自信が持てないというところが起点となっています。ところが、今回彼女は吹出物を患ったことで、自分が内心自身の肌に自信を持っていたいたことを知ることになりました。そうすると、彼女がこれまで持っていた外見への劣等感が一部否定されたことにより、そこからの長所への繋がりも否定されたことになります。そして、唯一の自慢であった肌も吹出物が出来てしまった今、彼女は誇れるものをすべて失った心持ちがしたことでしょう。だからこそ彼女は、そこから堕落していくしかなかったのです。
この作品では、〈自身の劣等感こそが長所に繋がっていたものの、その劣等感を失った途端、その長所も失ってしまったある女性〉が描かれています。
まず、下記の一文はこの作品の一般性を表したものとなっています。
私が今まで、おたふく、おたふくと言って、すべてに自信が無い態を装っていたが、けれども、やはり自分の皮膚だけを、それだけは、こっそり、いとおしみ、それが唯一のプライドだったのだということを、いま知らされ、私の自負していた謙譲だの、つつましさだの、忍従だのも、案外あてにならない贋物で、内実は私も知覚、感触の一喜一憂だけで、めくらのように生きていたあわれな女だったのだと気附いて、知覚、感触が、どんなに鋭敏だっても、それは動物的なものなのだ、ちっとも叡智と関係ない。
つまり、彼女はこれまで自分自身の外見に全く自信が持てない一方、むしろその外見への劣等感こそが、謙譲、つつましさ等の長所に繋がっていると考えていました。またこの繋がりというのは、彼女が外見に「全く」自信が持てないというところが起点となっています。ところが、今回彼女は吹出物を患ったことで、自分が内心自身の肌に自信を持っていたいたことを知ることになりました。そうすると、彼女がこれまで持っていた外見への劣等感が一部否定されたことにより、そこからの長所への繋がりも否定されたことになります。そして、唯一の自慢であった肌も吹出物が出来てしまった今、彼女は誇れるものをすべて失った心持ちがしたことでしょう。だからこそ彼女は、そこから堕落していくしかなかったのです。
2011年5月23日月曜日
眉山ー太宰治
帝都座の裏の若松屋という、著者がひいきにしている飲み屋があり、その家には自称小説好きの通称眉山という女中がいました。彼女はその無知で図々しい性格のため、著者を含めた彼の友人たちに嫌われていました。ですが、そんな彼女の印象が一瞬で変わってしまう出来事が起こってしまいます。一体それはどういう出来事だったのでしょうか。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつでしょう。では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれよりも、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。そして、この寂しさからこの著者も私たちも、今まで幾ら疎ましく思っていた相手に対しても、「あいつはいい人だった」と印象をころりと変えているのです。このように、私たちがもつこういった印象は、他人を通して自身の生活の変化に対し感じたものなのです。
この作品では、〈今まで傍にいた人物が突然この世から去ると分かった途端、その人物に対する印象を変える、あるお客〉が描かれています。
まず著者は、それから暫くして体の体調を悪くしてしまい。十日程その飲み屋に行けなくなります。そして体の調子が戻ると、彼は飲み友達の橋田氏を誘って再び眉山の飲み屋を訪れようとします。ですが、彼はその時橋田氏の口から思いもよらぬ事実を耳にします。なんと眉山は腎臓結核で手の施しようもなく、静岡の父のもとに帰っているというではありませんか。そして更に驚くことにそれを聞いた著者は、「そうですか。……いい子でしたがね。」と今までの眉山に対する印象をがらりと変えたような発言をしています。一体これはどういうことでしょうか。
一旦物語を離れて、私たちの日常生活に照らし合わせて考えてみましょう。例えば、私たちの身の回りの家族や友人との関係の中にも、こうった感情の揺らぎは起こっているはずです。嫌いな友人が転校してしまう時、或いは自分の苦手な家族に死が迫っているとき、私たちもやはりこの著者とおなじような印象を少なからずもつでしょう。では、私たちはどうしてこのような印象をもつのでしょうか。それは、彼らが私たちの生活に強く根付いていればいる程、そういった感情は強く出ます。つまり私たちは、何も彼らがいなくなることのそれよりも、自身の生活の変化に対して、ある種の寂しさのようなものを感じているのです。そして、この寂しさからこの著者も私たちも、今まで幾ら疎ましく思っていた相手に対しても、「あいつはいい人だった」と印象をころりと変えているのです。このように、私たちがもつこういった印象は、他人を通して自身の生活の変化に対し感じたものなのです。
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